拳を研ぐ

 西病棟の一階、会計待合で革の破けた長椅子の下を器用に這いずりながら寄ってきた顔中が目だらけの青年を蹴り飛ばし壁に叩きつけ、横部よこべは額の汗を拭った。


 この程度で汗を掻いていることがひどく不快で、横部は派手に舌打ちをする。格式がだの礼儀がだのいう先輩方無能どもの言うことを半端に聞いて袖と衿のある服ダブルの白スーツを着てきたせいだ。いつも通りのアロハか先日買ったばかりの浮世絵風武者の描かれたやつを着てくれば良かったと後悔している。どうせ真夏の夜なのだから誰に見られるわけでもない、ならばどんな格好をしていてもいいだろうに、うるさいやつらは細かいことを延々と言い続けるから嫌いだ。


 今頃東病棟で杖原──除霊に際して道具に頼るようなアホの一人だ──は馬鹿のように階段を上ったり下りたりしているのだろうが、横部には自身が賢いという自負があるので、そんな手間のかかることをする気はなかった。

 出口の近い一階に陣取って派手に暴れれば、凶暴な悪霊やる気のある連中は勝手に寄ってくる。臆病な連中わきまえたやつらが逃げ出すにしても霊的な出口は一階の大玄関以外は塞いであるのでどのみちここに来るしかない。こちらから出向くよりも相手にご足労願う方が気分が良い。分かり易い逃げ道を用意した上で、その真ん前に陣取るのが一番楽で効率がいい。うろつく幽霊を探して歩き回るのなど馬鹿がすることだと横部は鼻を鳴らす。


 変色しぼろぼろになった週刊誌が詰め込まれたままの本棚と壁の隙間から溢れるように現れた子供の頭部がみるみるうちに膨らんでいき、そのまま甲高い声を上げて走り寄ってきた。横部が膝を蹴り払って転がしてから痩せた手首を掴みもう一度本棚に叩きつければすぐさまその姿は消え失せ、掌にだけ生温い感触が残った。


 霊を掴めるのも蹴り倒せるのも、除霊のために編まれた術式のおかげだ。だが術式が何かというのを聞かれても、横部にはきちんとした説明はできない。ただ習ったように幾つかの手順を踏めば、何かしらの仕組みが発動して横部の手足はとんでもない強度と威力を以てバケモノどもをぶん殴れるようになる。それだけ分かっていれば十分だろう。世の中の連中だって、どうして飯を食うだけで生き物が生きていられるのかを完璧に説明できるやつは殆どいないのだ。どうなっているかの過程はともかく、何が起きるかを把握できていれば運用上の問題は何もないのだ。


 突然に音を立てて掠れたお手洗いの文字が書かれた扉が開いた。間髪入れずに赤茶けた包帯に覆われた人間らしい形をしたものが勢いよく走り寄ってくる。

 横部はその正面に立ち塞がり、体勢を低くしてからその薄っぺらい腹に拳を叩き込む。勢いもそのままにくの字に折れ曲がり浮き上がった包帯のかたまりは頭部に液体を滴るほどに滲ませてから床に落ちる。ばたばたとのたうち回る様に舌打ちして背中のあたりを蹴飛ばせば、盛大に反り返ってから床の埃に溶け混ざっていった。


 霊能者だの退魔師だのと霊と対峙する役割を持つ職業に対して勝手に世間では呼び名を幾つもこしらえているが、横部自身にはどれもしっくりこない。善川の名乗っている通り、除霊屋ぐらいでいいと思っている。

 死んだくせに彷徨い出た亡霊、あるいは最初から人外の妖物が生きている連中にちょっかいを出すのに対抗する──浄霊だの退魔だの、そんな生温いことはせずにこの世から『除』いてやる。それが横部の仕事であり、だからこそ自分が名乗るのは『除霊屋』が相応しいと思うのだ。


 先程から無人のカウンターで手招きをしている半透明の左腕を掴んで、腕相撲の要領で埃の積もった天板に叩きつける。強かに打ち付けられた腕はそのまま黒い板の中に沈み込み、二度と浮かび上がらなかった。


 除霊のためだけに、人間が此岸の外にいる連中に干渉できるようになるためだけに大昔の連中が作り出した手段が『術式』だ。術式を構築し、身体に霊素を巡らせる。それだけでただの人間の手が怪異も亡霊も殴り潰せるようになる。祝詞や読経で言って聞かせてやっても分からない連中にはうってつけだろう。

 人間から違うものに成り果てた程度で調子に乗るのが、横部にとってはひどく腹立たしい。存在の位相がほんの少しずれたせいでこちらが干渉できないと高を括って好き放題するような連中に、その優位がこちらの創意工夫であっと言う間に台無しにされるということを拳と腕力で以て教えてやれるのは最高だと、除霊の仕事に駆り出されるたびに思う。


 血と泥で編んだ縄のような髪が天井からすだれのように下りてきて、横部は躊躇なく掴んで一気に引き下ろす。薄汚れたリノリウムに叩きつけられた女がひしゃげた声で長々と絶叫を上げるのを蹴たぐれば長椅子諸共壁際まですっ飛んでから音もなく消えて、予想外の飛距離に横部は笑い声を上げた。


 除霊という行為自体の善悪を問われることはたまにあるが、そんなことを言うやつほどろくな成果を出していない。「どんな悪霊でもかつて人であったのなら話して分からない訳がない」と二桁ほどの被害が出ている事故物件──地域住民には『血の池アパート』というあんまりなあだ名をつけられていた──に、単身かつ丸腰で挑んだアホは内臓が幾つか腐って今では公的制度のお世話になっている。こちらに害を為してくる上に話も通じない相手に紳士的に対応してやる必要がどこにあるというのだろう。素手でやってやるだけ人間味のある対応であり、それこそ慈悲というものだろう。

 ただ横部にとってはそんなことはおまけのようなものだ。。文明のあるまともな社会に生きている以上、どれほど正当な理由があろうと殴ったやつは罰せられる。それについて横部は文句を言うつもりはない。知性と常識に倫理のあるまともな人間だという自覚があり、それによって社会の秩序が守られているのだということはきちんと理解している。

 だからこそ自身の『殴る才能』を心置きなく生かすことができる除霊は楽しくて仕方がないし、それを職業にできるのはとてつもない幸運であり社会に対しての貢献だと思っている。


 道具に頼るような堕落した連中に負けたくはないという欲望もある。頭さえあればどんな状況でも自分の手足で生き残り結果を出せる、最小限の労力で最大限の利益を得るのが知恵というものだろう。

 この廃病院で存分に結果を出せば、小うるさい先輩連中も監督役の善川にも分からせられるはずだ。横部がどれほど除霊屋として優れているかを見せつけてやれば、あの陰気な杖原も認識を改めるに違いない。横部の才能を認め、道具に頼る自身の愚を知るだろう。


 騒霊現象ポルターガイストによりすさまじい勢いでこちらに向かって突進してきた画面の割れた大型テレビを躱し、部屋の隅で顔中を埋め尽くす口を笑みの形に歪ませた喪服の亡霊に走り寄って胴体に膝を撃ち込む。無数の口を裂けるほどに開いてから、亡霊は羽虫が散るように霧散する。


 背後でテレビが力尽きて床に落ち、派手な音を立てる。それきり静かになったが、べとつく異形の気配はそこかしこから匂い立つ。まだ暴れる余地があるのだと、横部は口元を緩ませる。

 夏の生温い夜に満ちた廃墟の中で、横部は刃を研ぐように掌を撫でた。

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