腕を振う

 高い建物を巡回する時は、最上階から降りていくのが良いと聞いたことがある。

 セールスマンの心得だったか、学生の頃に読んだ小説に書いてあった。小説の内容はさっぱり思い出せないが、その心得についてはいつまで経っても覚えている。精神的な負荷の話だろうが、実際用が済んで建物を出る時には滞在位置と出口の距離が近い方が嬉しいに決まっている。


 だから杖原つえはらは死角から降ってきたり物陰から覗いたりいつのまにか足元に縋りつく幽霊どもを張り倒し蹴りつけ踏みしだきながら、一階から順繰りに階段を上ってきたのだ。


 エレベーターが使えればこんな面倒なことをせずに済んだのにと思いはするが、電気はともかく廃墟になってからメンテナンスもされずに放置されているような代物に乗りたがるほどの馬鹿ではない。勿論杖原にとっては高々五階建て程度の建物なら階段でも問題なく移動できる。ただ夏真っ盛りの今の時期は夜とはいえ気温が高く、悪あがきのように開けた作業服の胸元からは血まみれの髑髏が覗いている。廃墟だというから汚れてもいいような恰好をしてきたのだが、どうやら無駄な配慮だった気がしてならない。精々階を上がるごとに蜘蛛の巣にぶち当たる頻度が上がっているくらいだが、それにしたって汚れるのが顔ばかりなのだから作業服の利点が特にないと、杖原は微かに苛立った。


 顔にひたりと張り付いた手のひらを掴めばぞろぞろと連なった手首どもが天井から湧き出すように出てきた。適当なところまで引き出し、階段の縁に叩きつけてから体重を掛けて踏み止める。順繰りに金属バットの頭で突き潰してやれば、四つ目の掌が薄べったい肉の煎餅のようになったところでぼろぼろと全体が溶け崩れるように消えた。


 心霊スポットとして有名な場所だからか、幽霊の方も侵入者を脅かすことに慣れている。そんなことを思いながら、杖原は自身の得物である金属バットを慣らすように振る。今更棒きれでバケモノどもを殴り倒すことの是非など考えようとも思わないが、反撃を想定していないだろう相手に真正面から暴力を返せるのは愉快ではある。仕事としてなら尚更だ。適性のあることを生かした上で賃金がもらえるというのは、人生においての幸福の一つだろう。

 先程杖原が視線を逸らした一瞬の隙を突いて目の前の階段に立ち塞がった白衣の脚を横薙ぎにどついて倒れたところを滅多打ちにしたときは興が乗ってしまい、消えもせず蹲ったままの亡霊をガラスの残る窓から放り捨ててしまった。どうしてか間髪入れずに外から知らない声の悲鳴が聞こえたが、断末魔かまだ祓っていない霊かのどちらかだろう。


 またしても壁から伸びてきた手を掴んで伸ばしたところに金属バットを叩きつけてから、向こう──東病棟で暴れているはずの横部のことを考える。二階建ての本病棟を挟んで東病棟と西病棟に別れている。本病棟には見届け人──善川があらかじめ掃除を済ませ幽霊怪異えもの連中が入れないように結界を仕掛けてくれているはずだ。霊どもが杖原や横部から逃げようとして通過することはできても居座ることはできないという便利な代物で、理屈や仕組みについては聞いても分からないのでただ黙って説明を聞き流していた。


 杖原には術式だのなんだのはよく分からない。霊素の循環や術力の効率化がどうとかいうのは何度聞いても分からない。高校の頃の物理の授業だってもうちょっと分かり易かった気もするが、そちらでも百点満点のテストで七点を取ったので全くの気のせいだろう。物理については結局詰め込みで留年だけは回避したが、今となっては公式も法則名も何一つ思い出せない。gtの表記を見ると気分が悪くなる程度だ。シャルル・ボイルの法則という名前だけ──当然中身は覚えていない──は律義に記憶しているのだからみっともない話ではある。常日頃影響を受けているはずの物理法則に対しての理解でさえこの程度だというのに、それでも生きるのに不自由したことは今のところない。物理法則を理解も把握もできずとも、湯は沸かせるし邪魔な机を蹴り割ることもできる。

 結局その程度のことなのだ。考えるのは得意なやつにやらせればいい。殴るのも上手なやつに任せればいい。向き不向きはあれど優劣はないだろう。横部は杖原のように除霊に道具を使うやつを下に見ているが、それは理屈が通らない主張だとも思う。手段はどうあれ、要求された通りの仕事──生者に迷惑をかけるバケモノ連中を駆除する──ができるのならば、そこに一体何の瑕疵があるというのか。

 思考しながら階段を上る。横部のあの憎たらしい口調を思い出して、バットを握った右手に力が籠もった。同僚である以上は暴力沙汰に出るわけにもいかないが、それでも限度というものがある。


 上り切った踊り場の角に蹲ったままげらげらと笑う真っ白な目の少女の脳天に金属バットを振り下ろせば、西瓜を割るよりつつましい衝撃が腕に伝わる。そのまま少女は影も残さず消え失せて、踊り場には静かな夏の闇だけが蟠る。


 つまりこういうことなのだ。杖原が仕組みを理解していようといまいと、この金属バット──魑魅魍魎をぶん殴れるように、丹精込めて職人によって作られた道具を振るえば、霊は未練ごとその存在を喪失する。杖原自身がその素材や制作方法についての知識を持たずとも、使い方さえ知っていれば正しくその性能は発揮される。

 道具というのはそういうものだ。使用者の理解が最低限でも、その最低の基準を達成してさえいるのならば一定の成果が出せるように作られている。とても単純で効果的だ。使用者に過度な素質や理解を強いたところで限度がある。誰でも使えて効果のあるもので除霊ができるのならば、悪霊や怪異に苦しむ人々の助けになるのは確かだろう。


 道具の性能が確かであるなら使い手を選ぶ必要もない。誰が使っても同じ成果を出せるのは、道具として優れたものである証明だ。だがそれは使

 だから杖原は今こうしてこの廃病院でバットを振るっている。反射神経、膂力、体力、どれも霊と対峙するには申し分ないだろうという自信が杖原にはある。普通のバットでもそれなりの成果が出せるだろうが、だからこそ優れた道具を使いたいのは正当な欲求だろう。優れた道具は高い効率を齎す。鬼に金棒とはシンプルかつ陳腐だからこそ真理を表した言葉だ。


 最上階へと続く階段に四つん這いになって走り寄ってきた八本足の青年の前肘を砕きのめったところを踏みつけて生白い額に一撃を叩き込めば、出を間違えた役者のようなひどく間抜けな顔をして亡霊は消え失せた。


 階段を上り切り、上体を捻ると関節が鈍い音を立てる。この階段の道中だけですべてを始末できたとは思わないが、準備運動ぐらいにはなっただろう。あとは階ごとにきちんと始末をつけて下っていくだけなのだから気が楽だ。幽霊退治にも、セールスマンの心得は有効なようだと杖原は薄く笑った。


 振り返れば、背後の大窓から月が見えた。


 差し込む月影に背を向けて、ついてもいない血潮を振り払うようにバットを振る。温度のない月光を浴びて、バットは抜き身の刀のように光った。

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