第38話 君が待つ悪夢

 虻女アブおんなが宙を舞い、死者の軍団が不定期に湧き出してくる。エミリアを担いだ私には逃亡という選択肢がとれなかった。

 そして、敵は待ってくれない。

 どうしたものやら。


 死者をヒットアンドアウエイで数減らしをしながら考える。

 エミリアの言っていたとは何なのか。

 考えても何も浮かばない。


 羽音が高周波域近くまで上がっていく。

 もはや拷問だ。


 耳を押さえ、戦いながら虻女を見上げる。

 死者の軍団やそのへんに散らばっていた死骸やらなんやらをそいつは採り込んで膨れ上がる。何でもありというか雑食というか、滅茶苦茶だった。

 虻女はデブ専が泣いて喜ぶ、はち切れそうな肥満ボディーに変化していく。

 構成因子から、まだ女の体裁は保っている。

 私の好みでは断じてないが。


 虻女は熊蜂を肥大化させた容貌に進化していく。

 頭は多数の人頭ひとがしらに変化して、口をぱくつかせ。胸部は豊満な乳房に黄色い産毛、ハエのような腹部は肥大化してボンレスハム。6足はすべて人の腕。

 人間の要素が激減だ。


 一度狂気に陥った私のSAN(正気度)は揺るぎもしない。

 普通の神経なら廃人になるであろう不気味な容姿。

 ただただおぞましい。


 それはキリスト教の悪魔を具現化させたようなモンスターだった。

 安直に名付けるならベルゼブブ。


 奴に命名したからか、高かった羽音はぴたりとやんだ。

 苦痛からの開放は別次元に移行しただけ。


 辺りが闇に飲まれていく。もう自分の両手はおろか視野が完全に閉ざされた。

 暗黒だ。

 平衡感覚も失われ眩暈から転んでしまう。


 敵の攻撃だ。

 精神干渉系の固有魔法か固有スキルに違いない。


『さあ、私と夢をみましょう! 幸せなあの時に戻り』


 何人もの人間の声が頭に鳴り響く。狂気がじりじりと上昇するのがわかる。

 そして脳裏にイメージが浮かび上がってくる。


 幼い娘と妻を連れて野原でハイキング。楽しかった思い出。

 古都への旅行、海水浴、花火大会、祭り……。


「もうやめてくれ、それは私の大事な記憶だ。お前が勝手に踏み込んでいいものではない!」


『さあ、巻き戻って幸せの絶頂に! 家族が貴方を待っています!』


 私は涙を流していた。恥ずかしげもなく泣き叫んでいた。

 あぁ、戻りたい……。

 あの頃に。


 イメージの断片が走馬灯のように回っている。

 これは罠だ。


 心の片隅に警告がでても、懐かしい景色が私を惑わしてゆく。

 身を任せれば永遠の楽園が待っている。

 抗えない。

 抗える筈がない。


 これは私の宿望なのだから。



「私はあなたを逃がさないわ。神田先輩!」


 金切り声。夢の中で聞き覚えのある声が叫んだ。

 現実に引き戻された。

 ここは林の中。


「決して貴方を逃がさない。死してなお纏わり続けるの。私ってストーカー気質」


 そこに居るのは淫魔。

 性欲どころか私のすべてを貪りとろうとする悪魔。

 魂を惹かれるような美貌、禁断の果実とはこの生物のことを言う。死ぬと分かってなお誘引される。もはや魅了。チャームの魔法。呪いなのかもしれない。


 名を呼ばれてこの女が何者か理解した。


「ストーカー気質ではなく、お前は立派なストーカー。何故つきまとう?」

「私は口癖のように言ってたよね。奥さんと別れてって!」

「やはり君か……」

「好きになったものは仕方ないじゃない。私の愛情は本物よ。貴方を刻んで食べてもいい。それほど好きよ!」


 この女、高野沙希たかのさきは私の不倫相手だ。

 ただ、手を出した記憶もなければ男女の関係でもない。立証はできないが。

 部下としての好意はあっても愛情は微塵もない。

 確かに綺麗な女だった。

 だが、狂気が垣間見えたのだ。それは本能的な忌諱だったかもしれない。


「君はなぜ私にそれほど入れ込むのだ。理由がわからない。君は才媛と誉めそやされ、学歴や家柄からして私など釣り合うはずもない」

「評価していただいているのに……私じゃダメなの? 私の闇の部分も知ったうえで平等に接してくれ、辛かった時に励ましてくれた。それは、些細なこと。でも、好きになるには理由はいらない。恋に落ちたのよ。女の部分が私を飲み込んだ。それだけ。貴方が愛おしい。貴方が欲しい!」


 女の歪な熱意と淫魔の魅力的な肉体が私を惑わす。

 色欲が私を翻弄する。


 ずっと精神攻撃だ。

 虻女アブおんなといい、淫魔と言い。


 私にかまうな忌々しい。


「私を受け入れて! すべて捨てて此処にいるの。魔神との取引だって、あなたのためなら怖くなかった。私の身体が……あなたを欲する。すべてを貪れと」


『迷わないで! 貴方の居場所はここなの。私達を置いていかないで』


 妻と娘が死に衣装で私の前に浮き上がってくる。

 死んでいた部屋が背景に……。


 頼む。

 やめてくれ!

 俺はどこに流れ着こうとしている。


「ちょっと、横取りしないで! 蠅の分際でうるさいわ。彼は私のものなの。決して渡さない」


『さあ、帰ってきて私たちのもとに』


 仲たがいしているようだ。


「私は誰のものでもない……」


 沙希は魔神に魂を売ってでも私につきまとう。

 それはもはや狂気に近い。

 そして、虻女は私を餌にしようとしている。


 どちらを選んでも幸せは訪れない。

 だが、拒めない。


 高野沙希はストーカーだった。

 泥酔した一夜の写真を証拠に握られ脅された。妻と娘にばらすと。

 待ち伏せは当たり前、車の合鍵を奪われ、食事の強要。

 肉体関係、手を出さなかったのは恐怖から。


 本気で食われそうだった。


「ねえ、私を抱いて。ねえ、ねえってば!」

「惑わされても……心は決して渡さない」


『さあ、おいで! 暖かいお家に。待ってるから』


「うるさい! 外野は黙って退場! 神田先輩。いえ、義博。私は貴方のこと良く知ってるわ。愛されてないこと、そんなこと私が一番知っている。貴方は誰も愛さない。愛妻家の皮をかぶった偽善者。誰も愛さない!」

「そんなこと私もわかっている。偽善者。確かにそうだ」


 沙希はインキュバス。

 頭上で舞うは虻女。

 私の身体はインキュバスのもので、魂はベルゼブブに吸い上げられていく。


「蠅は消えろと言ったのよ! 許さない。邪魔は許さない」

「私は消え去る肉体などどうでもいい。だが、心は渡さない。誰にも」

「そうなの? 私は受け入れられないの。なぜ、私が□□□□だからなの。伏字になるな! 高野沙希だから……」


 沙希は禁則ワードで肉片と化していく。

 この世界の理が発動したのだ。


 名前!


 私は理解した。

 虻女は集合体、複数の人間を寄せ集めたもの。


「お前にきく! この中に佐藤、鈴木、高橋、田中はいないか⁉」


『そんな誘導にのる者がいるか』


 虻たちは笑った。


『はい!はい!はい!はい! わたし高橋だよ』


 上手く釣れた……バカがいたのだ。

 押し問答の末、巨大な肉片が足元に散らばっている。


 こんな場所に長居は……。

 戻ろう。


 いたたまれず、エミリアを担いで逃げ出した。

 奴隷男達やタイガー・タイガーがどうなろうが知ったことではない。


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