第3話 『怪奇』の臭い
「お前の面の皮は、一体どれだけの厚みがあるんだ?」
「おやおや、この繊細な顔立ちの美男子にご挨拶だな」
澄ました顔で応える独歩に、花袋は「少しは反省しろよ」とぼやくしかなかった。
彼の見た目に関する自己評価を、花袋には反論することができない。実際、彼は美形だからだ。一方、花袋は自分の容姿に自信がない。図体ばかりがでかい自分は、独歩のようには振る舞えない。
独歩はだいぶモテる。口が上手いのも手伝っているにしても、確実に花袋よりはモテる。洒落ている。女性に限らず、男性にも悪く思われることがあまりない。見た目だけではなく、たらしの手管に長けた男なのだ。
「花袋、君はもう少し服装を気にしたまえよ。僕の姿を見ろ。貧しくとも洗練されていよう」
独歩ご自慢の舶来ものの背広を頭からつま先まで眺めた後、花袋はがっくりと肩を落とした。この男のようになれ、というのは、到底無理な話だと実感したからである。
「俺はお前ほどの洒落者ではない。似合わないだろう」
「でかい図体をしている方が、洋装が似合うと思うのだけどね」
小柄でも洋装がすっきりと似合っている男に、そんなことを言われても困る。花袋はそう思うのだが、独歩はこの話題を引っ張る気はないらしい。すぐに本題を切り出した。
「ところで、肝心の野口とのご対面であるが、君の鼻は何か妙な臭いを嗅ぎつけたかな?」
花袋は独歩に視線を投げる。
「お前は?」
「僕は君ほど敏感じゃない。話すのに忙しかったしね。要するに――何も見ていない」
「俺は……少し違和感はあったが、少なくとも『怪奇』がそこにあるという感じはなかった」
「ふむ、なるほど。では野口本人に何か憑き物がある、という類ではなさそうだ」
花袋の鼻は、霊感だけではなく、様々なものによく利く。
珈琲を淹れた時の豆の違い、庭先に咲く花の香り、道端ですれ違った乙女の髪油の匂いまで。とにかく、よくぞここまでというほどに、鼻が利く。前世は犬だったと言われたら、思わず信じてしまいそうだ。
そして、独歩はそんな花袋の『鼻』に、絶大な信頼を寄せてくれている。だから、余計な話をする必要はなかった。
独歩と花袋、どちらの『霊感』もろくに働かなかったのだから、『怪奇』が野口本人に憑いているということはなさそうだ。野口が直接『霊穴』に接触して『怪奇』に憑かれたわけではなく、周囲に『怪奇』に憑かれた者がいて、彼に影響を与えた線の方が強いだろう。
帝都でよく聞く『怪奇』には、大体二つの傾向がある。
『霊穴』そのものが『怪奇』として機能する場合と、『霊穴』に間接的な影響を受けて『怪奇』が人や物に憑りつく場合だ。後者の場合は、『怪奇』が発現している最中以外で察知するのは難しい。
だが、花袋の鼻であれば、本人に憑いているものは大体わかる。明らかに変な臭いを感じる。それが野口にはなかった。
独歩は『霊穴』や『怪奇』そのものは見えても、そこから生まれた憑き物を見るのは得意ではないので、花袋の『霊感』の方がこの場では信用するに値するというわけだ。
「よし。花袋、行くぞ」
何やら納得したように、うなずいた後、独歩は花袋の先に立って悠々と歩き出した。少しだけ迷って、花袋は彼の背を追った。
「どこへ行くんだ? 野口には何もなかったんだろ。独歩社に戻るんじゃないのか?」
「何を言う。調査は始まったばかりじゃあないか。市ケ谷監獄から、最初の臀肉事件があった麹町の路地まで近い。このまま、直接現場に行く」
軽やかな口調でそう言ってのけた独歩に、花袋はややひるみながらぼやいた。
「さ、殺人現場かよ……」
「数年前の話さ。血の痕ひとつ残っちゃいない。まぁ、僕や君にとっては多少刺激的な可能性はあるが――」
「だから嫌なんだよ! というか、お前だって、血なまぐさいものが得意なわけじゃないだろう!」
花袋が知る限り、独歩は血が苦手だ。切り傷を作って血がにじんだのを見た程度でも、わぁわぁと騒ぐ。グロテスクなものなど、本来は見たくもないはずだ。
しかし、独歩は「なんだそんなこと」とでも言いたげな顔で花袋を見つめている。
「得意じゃあないとも。だけど、人は慣れるものだよ」
「慣れる……ものか?」
「君だって、妙な臭いを嗅いだとしても『またか』となるだろう?」
「それはそうだけど」
果たして、その『慣れ』は普通に受け入れていいものなのだろうか?
はなはだ疑問であったが、花袋はその疑問を喉の奥に押し込んだ。ぐだぐだと文句を言っても仕方がない。覚悟を決めるべきところだ。
ここまで関わってしまったのに、怖気づいて逃げ出すのは寝ざめが悪い。花袋は独歩についていくことに決めた。
「わかった。行こう」
花袋の言葉に、頷いて独歩は頷いて先を歩き始めた。
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