第2話 獄中の告白者
野口男三郎は、薬店店主から金を騙し取り殺した強盗殺人の罪で、死刑の判決を受けた。
逮捕された罪状はこの薬店主強盗殺人と、書類の偽造であるが、他にも義兄殺人、少年殺人と死体損壊の事件にも関わっていると目されている。
後者の二件については証拠不十分により不起訴となったものの、強盗殺人の罪状だけでも死刑にふさわしい罪。彼の刑死は、もはやほぼ決定事項である。
しかし、この野口という男がこれほど世間の注目を集めた理由は、むしろ証拠不十分とされている義兄と少年の殺害の罪状にあった。
調査によれば、野口は麹町の路地裏で、少年を地面に押し付けて圧殺した。その後、臀部の肉を切り取って、持ち帰った。
その臀部の肉を、鶏のスープに混ぜて義兄と妻に食べさせたのだ。つまり、人肉食をさせたのである。
人肉は籟病に効く妙薬である、という迷信がある。籟病を患っていた義兄の治療と、妻にその病が感染せぬようにと願いから、彼は罪なき少年を殺す凶行に及んだと思われる。
しかし、結局義兄の不興を買った野口は家を追い出され、それを恨みに思い義兄を秘密裏に殺害した疑惑があがっている。
その後金に困って、偽の投資話を持ちかけて薬店店主から金を騙し取り、口封じに殺害した。こちらの事件は起訴されている。
――というのが、世間を震撼させている野口男三郎事件のあらましだ。
「結局、こうなるんだもんな」
居酒屋で計画を聞かされた数日後、花袋は独歩と一緒に市ヶ谷監獄まで来ていた。野口との面会のためである。
実は、独歩はすでに一回面会をしているらしい。最初は『怪奇』の話とは関係なく、純粋に話題の死刑囚の獄中手記を依頼するつもりだった。それが、野口が犯行は『怪奇』の影響によるものであると主張をしたために、花袋のところまで話が転がってきてしまった。
『霊穴』の発生や、それに付随する『怪奇』は現象であるからして、真相を解明する必要がある刑事事件とは相性が悪い。全て『怪奇』のせいだ、となれば警察は商売あがったりだ。無論、野口男三郎が罪を逃れたい一心で嘘をついている可能性も高い。
「聞いたか? 『怪奇』に関連するかどうか、確定するまで刑の執行ができないらしい。責任能力の追求が必要ということだな。僕らがその点を解明できれば、野口の手記を発行しても有象無象かつ低俗な暴露本という誹りも避けられよう」
「それに俺が巻き込まれる理由は?」
「文学的探究心を満たそうとは思わないかね? お礼に、とっておきの珈琲をごちそうするとも」
「素直に俺の霊感をあてにしたと言え。……珈琲はいい豆を使ってくれるんだろうな」
「もちろん。珍しく小説が売れた時に買った、秘蔵の豆を挽いてやろう」
「いやいや、待て。その前に家賃を払うべきだろう」
「払ったさ、その時は。その余りをつぎ込んだわけだよ。とびきり上等のを買ったんだぞ」
珈琲は国内では生産されていない、舶来品だ。それも上等の豆となると、滅多なことでは手に入らない。
花袋がややまんざらでもない顔になったのを見て、独歩は得意げに鼻を鳴らした。そこは得意になるところではない。
独歩に対しては言いたいことが山ほどあるが、良い豆を使った珈琲には素直に心が惹かれてしまう。それに、ここまで来てしまったからには、花袋も世間を騒がせている臀肉事件の謎を解明してやりたい気持ちになってきたからだ。
手記の依頼がすでになされているからだろう、監獄でのやりとりはあっさりとしたものだった。約束を取り付けた取材である旨を伝え、野口の手記原稿を先に受け取る。
独歩が貸してくれたので、花袋もそれにざっと目を通した。文学を志した者ではない割に、文章はしっかりとしている。二つ目の殺人の被害者と目される野口の義兄は漢詩で著名な人物だ。少なからずとも影響はあったのかも知れない。
ただ、やはりというべきか、全体的に言い訳がましい。
証拠不十分として不起訴になった臀肉事件、義兄殺害については、警察の横暴によって虚偽の自白をしたと主張している。
無論、世間が求めているのは『臀肉事件』の真相である。「無実なんです信じてください」などといった月並みな弁解など、誰も望んでいないだろう。独歩も、心なしか渋い顔をしていた。
「これはダメだな。このままじゃあ使えない」
独歩が辛口の感想を述べるのを聞いていたら、係の者がやってきた。ついに面会が叶うらしい。
野口は、独房に入れられていた。
面会は鉄格子の向こう側、看守に両脇を固められていた。有罪判決は一件のみとはいえ、三人殺した凶悪犯であると考えれば当然の対応だろうか。
「手記には包み隠さず書きました。どうか信じてください」
野口はやつれた顔をしていて、眼光ばかりが鋭くギラギラと輝いている。
「全てではありませんが、ざっと読ませていただきました。野口さん。貴方は、不起訴となった臀肉事件、及び義兄殺害事件について、供述は警察の圧力による虚偽のものである、と主張しておられますね」
独歩はまず、そう切り出した。
独歩は新聞社時代、論舌ひとつでいくつものスクープを勝ち取ってきた生え抜きの記者だった男だ。
花袋はそこまで攻めの記者生活をしてはいなかったので、独歩の単刀直入すぎる物言いに、やや冷や汗をかいた。独歩自身は涼しい顔だ。微笑みすら浮かべている。
「警察からの圧力は、確かにありました。それは、弁護士の花井先生も指摘されています」
横に立った看守が野口を押さえようとしたが、独歩は「必要ありませんよ」と、さらりと流した。
「おい、必要ないか判断するのは、あちらじゃあないのか」
焦って独歩に耳打ちをしたが、返ってきたのは無言の肘鉄だった。地味に痛い。
「ところで、今のところ帝都でのみ起こる現象『霊穴』の影響下で起こるとされる怪奇現象については、警察は手を出しかねるとのこと。貴方は警察の圧力があった、と赤裸々に書き綴っておられる」
野口の眼差しは光を増したが、脇を固める看守たちの眼光も増す。花袋はもう一度「おい」と声をかけたが、再び肘鉄が返ってきた。酷い。
とはいえ、ここからが独歩の話術の見せ所だ。それは花袋も理解している。だから、信じて見守ることにした。もう肘鉄は食らいたくない。
「警察の圧力について、怪奇現象への言及を避ける、と言った内容は含まれますか?」
「含まれます」
「なるほど、野口さんは、件の不起訴となった二件について、『霊穴』による『怪奇』の仕業であったと認識してらっしゃる。ところで、その根拠は? ご存知かもしれないが、私は元新聞記者でしてね。本当のことを書くことが重要だと常々思っているのです。真実の究明は、貴方にとっても、警察にとっても有益であると信じている。もちろん、世間にも真実を知る権利があるわけですよ」
流れに任せて「真実」と言い連ねているようにも見えるが、これについてはあながち独歩の口から出まかせというわけではない。
記事も文学も、真実をありのまま描写すること。それが独歩が常日頃から花袋に語って聞かせている、彼なりの矜持なのである。もちろん、野口に口を割らせるための方便も含んではいるのだろうが。
花袋が口を挟む猶予もなく、もちろん野口に余計なことを言わせることもなく、独歩は朗々と続けてみせた。
「これが『怪奇』であるのか、それとも人の業か。それをはっきりさせねば、野口さんは死んでも死にきれぬでしょうし、警察としても威信に関わります。しかし、片や牢獄、片や法の番人とあれば、不自由もありましょう。私は、貴方たちの代わりに真相究明のお手伝いをしたいのですよ」
人間とは不思議なもので、舌先三寸の与太話であっても自信と余裕を持って、相手の得になるようなことをちらつかせると、自然と「そういうものか」と考えるものだ。隣で聞いている花袋も、なるほどそういうものかという気持ちになってくる。
これは警察よりも、詐欺師でもある野口の方が得意な手管であるかもしれない。
もちろん、独歩は詐欺師ではない。ただ、真実を引き出すために、大言壮語や喧嘩売りで煙に巻くのが得意な人間というだけだ。
警察としては、『霊穴』からみの『怪奇』であるなら、一刻も早くこの件から手を引いて、野口を単なる強盗犯として吊るしたいのが本音であろう。ゆえにつけ入る余地がある。
「ところで、警察にお願いしたいことがあるのですが、繋いでいただくことは可能ですかね?」
独歩は看守に向かってそう言った。
「何もさほど大それた要求はいたしません。臀肉事件と、義兄殺しに関する事件の調書を、少しばかり見せてほしいだけです。もちろん、どうしても公開されては困るという情報はお出しいただかなくて結構。後は、殺された店主の薬店を検分する許可をいただきたい」
看守二人のうち片方が、上官らしきもう片方に耳打ちをして、足早に駆けて行った。
これは交渉成立と見ていいだろう。恐らく、独歩の要望は通る。
裁判は傍聴している人間がいるのだから、記録が残っているはずだ。出してまずいということはないだろう。
証拠不十分とされた判決事由には、いくつかの状況的不自然な点に加え、警察からの圧力があった可能性についてもきちんと明らかにされている。実際、野口はすぐに控訴を行っている。薬店店主殺しの有罪が覆らなければ、控訴しても死刑は免れないであろうが――。
要するに、二件の事件が不起訴となった時点で、すでに警察の面子は潰されているわけだ。その上、怪奇現象のせいだと噂が立てば、薬店店主殺害の有罪判決も揺らぎかねない。控訴審で逆転無罪を勝ち取られては困る。
野口は『怪奇』である根拠が、警察は『怪奇』でない根拠が欲しい。たとえそれが、零細出版社のキワモノ書物に書かれた、もっともらしい風説であったとしても、だ。独歩はそこに舌先三寸でつけいったわけである。まったく、彼の話術には驚かされる。呆れもするが。
「秘密は必ずお守りいたしますよ」
独歩は品よく、堂々たるたたずまいで微笑んだ。
花袋は眼鏡の奥から「よくぞそんなことを言えたものだ」と言わんばかりの眼差しを投げてやったが、案の定、独歩には黙殺されてしまった。
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