第4話 そこにいるけど見えないもの

 臀肉事件の犯行現場は独歩の自宅に近い。だから、独歩の家によく遊びに行く花袋にとって、この近辺はそれなりに馴染みのある風景だ。実際、臀肉事件が世間を震撼させていた時も「近場で嫌な事件だ」と思った記憶がある。

 当時は犯人の推測もたっていなかったので、この界隈に住む者たちは件の路地裏は避けていた。花袋も妙な臭いを嗅いだら憂鬱だと思って、わざわざこの路を避けて通っていたのだった。

 そういった事情であるので、一応不起訴とはいえ犯人が捕まり、生々しい記憶が薄れた今でもこの路地に人影はない。

「さて、『霊穴』探しだ。花袋、なんか臭うかね?」

「なんか……微妙に変な臭いがするな……これは血の臭いか?」

「いいね、当たりの気配がする」

 独歩は喜んでいるが、花袋は陰鬱な気持ちになる。数年経っていると言っても、ここはやはり殺人事件の現場なのだ。できれば来たくはなかった。

 ちなみに、独歩が曰くところによると『霊穴』の発生個所にはある程度法則があるそうだ。神社や土地神を祀っている、元々霊的な場所。薄暗い、生きている人間の気配が薄い場所。そして刑場や殺人事件現場など、負の気配が濃い場所だ。

 つまり、まさにこの場所は『霊穴』ができやすい条件を満たしているわけだ。

「ここにはきっと『霊穴』があるぞ」

「ある、って言っても、俺には見えねえよ」

「君に目利きは期待しちゃいないよ。臭いはどうだ?」

 問われて、花袋は気乗りしないながらも周囲の臭いを嗅いでみた。路地裏の湿った土の臭の中に、わずかな生臭さが混じっている。

「何と言うか、奥の方から血なまぐさい感じがするんだが……。そこが現場っていうことか?」

「……ふむ、そのようだ。今度は僕にも『見える』ぞ」

「見えるって……、つまり、その……幽霊かなんか?」

「ああ、そこにいる」

 独歩はさらりとそう言ってのけた。彼はじっと、路地裏の一点を見つめている。

 殺された少年――名前は確か河合荘亮。彼がそこにいるというのか。

 花袋は丸眼鏡を指で押し上げながら、まじまじと薄暗い路地を睨んだ。もちろん、花袋の目には荘亮少年の姿など見えない。そのかわりに、血なまぐささが一層強く感じられるようになった。

 だから、花袋はそこに何かが『居る』ことを、認めざるをえなかったのである。

「下半身が腐敗している。尻の肉を削がれたからかな。それと、目がえぐられている。これも調書にあったな。どうやら被害者の少年で間違いなさそうだ」

 ご丁寧にも独歩が幽霊の状態を説明してくれたので、花袋は血なまぐささの中に腐敗臭も感じるようになった。吐き気がせりあがってくるのを、何とか飲み込む。

「やっぱりここは『霊穴』のありかだな。ただ、事件前からあったかどうかは怪しい。『彼』しかいないし、『彼』はこの『場所』に憑いている『怪奇』と見た」

 独歩はといえば、見慣れているのか動揺したわけでもなく、『霊穴』のありかについて考察している。

 独歩に何が見えているかはわからないし、正直わかりたくもないが、『霊穴』の成立過程には花袋も多少興味がある。

「つまり、ここの『霊穴』は、事件が原因でできた後天的なものだと?」

 花袋の問いに、独歩は「その通り」としたり顔でうなずいてみせた。

「どれ、会話ができるか試してみよう」

「は、話すのかよ……」

「ここで幽霊を眺めたり、臭いを嗅いだりしていても、何もわからないだろう」

「いや、お前見ることはできても、声は聴けるのか?」

「聴けない。まぁ、見ていたまえ。やりようはあるさ」

 ぼんやり不安になる花袋をよそに、独歩はおそらく少年の幽霊がいるであろう場所を見つめながら、澄んだよく通る声で呼び掛けた。

「君は荘亮君だね」

 少年の霊はどう答えたのだろう。『聴く』霊感の持ち主ではないので、花袋はもちろん、独歩にも答えを聴くことはできないはずだ。

 独歩は何やらうなずいて、次の言葉を繋いだ。

「君は目が見えないんだね。大丈夫、僕らは君に害をなすような人間ではないよ」

 目が見えない。目がえぐられたままだから、幽霊でも少年からはこちらの姿が見えないということか。

 臀肉事件で、犯人は臀部の肉を持ち去るだけではなく、少年の両目を抉り取っていた。臀部の肉については、病気治療の俗信を信じて持ち去ったもの、とされるが、両目の行方については特に言及されていない。

 一体どこに目玉を捨てたのだろう。想像すると薄寒くなって、花袋はそっと身震いをした。

 独歩は、まだ少年幽霊のいる一点を見つめている。

「僕には君の声が聞こえない。だから、うなずくか、首を振るかしてほしい」

 花袋は、自分には見えない少年の霊のいる場所を見つめる。独歩は何やらうんうんと頷いている。

「君の目は、最初にそうされたのかい?」

 どうやら意思の疎通はできているらしい。独歩は意味ありげに笑って見せた。

 えぐられた荘亮少年の目が、一体何に関係するというのだろう。

「では、後になってだね?」

 花袋は見守ることしかできないのだが、独歩は何らかの納得を得たようだ。「ふむ」と小さく呟いた。

「君、目は見えるかい?」

「……おい」

 えぐられているのだ。見えるはずがない。花袋は横から口を挟みそうになった。独歩が手振りで制止するので、すんでのところで声を飲み込む。

「見えるはずだ。ねえ、君、もう終わったことなんだ。だから見えるし、歩ける。家族の元にお帰り。きっと、今もまだ君を待っているだろう。僕の信じる神は、君の信じるものとは少し違うかもしれないけれど……今は君のために祈ろう。アーメン、君の魂に救いがあらんことを」

 独歩はシャツの下から十字架を取り出して、祈るしぐさをした。独歩はクリスチャンだ。荘亮少年は恐らくクリスチャンではない。だが、恐らく独歩の言葉はきちんと彼に伝わったようだ。

「家に帰るまでがおつかいだよ、荘亮君」

 独歩がそう呼び掛けた数秒後、花袋は辺りを包み込んでいた腐臭混じりの血なまぐささが、スッと引いていくのを感じた。まだ空気は重いが、先ほどまでとは比べ物にならないくらいに、澄んでいる。

「どうやら、きちんと逝くことができたらしい。やってみるものだな」

「お前、できるか確証もないのに、幽霊を成仏させようとしていたのか」

 花袋は呆れ半分に、この豪胆な親友を見やる。

「こんなところで、一人取り残されているのはかわいそうじゃあないか」

 心外、とでも言いたげに独歩は肩をすくめた。

「憑き物はある種、負の感情の固定とも言える。だからそれを取り去ってやれば、どうにかなるかと思ったのさ。彼の魂に祝福あれ、アーメン」

 歌うように口ずさみ、独歩は十字架をシャツの中にしまった。

「はぁ、お前ってやつは……」

 花袋はため息をつきながら、髪をがしがしとかきあげた。独歩の除霊が――というには行き当たりばったりのものだ――功を奏したのか、濃厚な血なまぐささはだいぶ薄まっていた。しかし、わずかに不可解な臭いが混ざっているように思える。

 何の臭いかはわからない。しいていうなら、湿気った畳に生えたカビのような臭いに思えた。思わず独歩を見やると、彼は先ほど荘亮少年がいたのであろう場所を指さした。

「荘亮君がいなくなっても、『霊穴』は残るみたいだね」

 独歩が言うのだから、それはまだそこにあるのだろう。花袋が嗅いでいる妙な臭いも、すべては『霊穴』のせいということだ。

「それで、これからどうするんだ?」

「僕らに『霊穴』をどうにかする力はないよ。幸い、ここは人通りがほとんどない。荘亮君ももういないから、ここで『霊穴』に憑かれて『怪奇』を引き起こす、なんてことはそうそうないだろう。放置で大丈夫なはずだ。……それより」

「それより?」

 独歩はニヤリと笑う。花袋はイヤな予感がして、冷汗をたらした。

「僕らが探すべき『怪奇』や『霊穴』はここにはない。悪いが、数日後もう一度付き合ってくれたまえよ」

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