先輩のハロウィン・コスチューム

江倉野風蘭

先輩のハロウィン・コスチューム

 10月31日の夜。

 ハロウィン・ナイトがやってきた!

 ……が、わたしのような会社員にそんなものは関係ない。ハロウィンだからといって残業がなくなったりはしないし、お化けの格好で仕事をするのが許されるわけでもない。10月31日はただの10月31日であって、それ以上でもそれ以下でもないのだ。いつものように出社して、いつものように残業をさせられるだけである。

 その残業もやっと終わった。後はもう帰ってシャワー浴びて寝るだけだ。他のことをする元気は、まあない。

 もっと言えば家に帰る元気もない。このビルからバスの停留所まで歩くのでさえ正直しんどい。帰りたくないわけじゃないけど、むしろ滅茶苦茶帰りたいけど、微妙に遠い道のりがわたしの足取りを重くする。


 だから帰る前に一服入れる。

 この喫煙ルームで一息ついて、日常生活に句読点を打つ。それから帰る。


 壁に背中を預け、紙巻きのタバコに火をつける。ブラックデビルのオリジナル。その名が示す通り真っ黒なタバコ。けど見た目に反して吸い口は甘い。ココナッツミルクの香りがする。

 一口吸って……ふうー、と吐く。煙が天井の空気清浄機へ吸い込まれていき、同時に肩の力がすっと抜ける。ついでに、学生時代の思い出が脳裏に浮かび上がってくる。

 あの頃は本当に楽しかった。ハロウィンというものを満喫する余裕があった。友達と一緒に仮装して、ハロウィン野外パーティーで夜遅くまで盛り上がったっけ。

 たった二年前まではそれができた。が、二年経ったらこのザマだ。一年目はまだ耐えられたけど、二年目となると何だかこう……惨めで悲しくなってくる。去年と今年で何が違うのかは自分でもよく分からない。


 ……はぁあ。

 戻りたいなあ、あの頃に。

 何も考えずに『トリック・オア・トリート!』とか言って遊んでいられたあの頃に、戻れるものなら戻りたいよ……。


「……辞めよっかなァ。会社――」

「えっ、会社辞めちゃうの?」

「――ぅひいッッッ!!!???」


 誰!? てか心の声漏れてた!?

 と驚きながら右の方を振り向くと、そこには同じ部署の先輩がいた。わたしと同じく壁にもたれかかり、マルボロの煙をくゆらせながら悪戯っぽい笑みを浮かべている――わたしがぼんやりしている間に喫煙ルームに入ってきていたらしい。


 先輩。

 フルネームはとりエリザベート神楽かぐらという。日本とドイツのハーフで、歳はわたしの三つ上。才色兼備という言葉が服を着て歩いているような人で、社内には男女を問わずファンが多い。何を隠そう、わたしだってその一人である。


 そんな憧れの人の不意打ちにわたしがどぎまぎしていると、エリザ先輩はそのみどりいろの眼を優しげに細めながら言った。


「何か悩み事でもあるの?」

「あっいえその、大したことではないんです、全然まったく……」

「私でよければ話聞かせてよ。人に話したらスッキリするかもよ?」

「あぅ……」


 さっきは深刻そうな感じを装ってみたけど、実際そんな大した悩みじゃない。社会人なら多分誰でも一度は考えるようなことであって、わざわざ誰かに相談するようなことでもないと思う。

 ……でもエリザ先輩ともあろう方に聞かせてと言われちゃったら、仕方がないから。

 わたしは素直に打ち明けてみた。ハロウィン楽しめてたあの頃に戻りたいなぁと思ってました、と。

 するとエリザ先輩は、ひとしきりわたしの話を聞いた後。


「そっか。もう一度ハロウィンを楽しみたい、かあ……」


 と、どこか感慨深げに言いながら、根本まで吸いきった煙草を吸殻入れに捨てた。


「はい……」

「ふーん。……じゃあさ。って言ったら、どうする?」

「へっ?」


 もう一度楽しませてくれる?

 エリザ先輩が、ハロウィンを?

 どういうことだろう、とわたしは首を傾げた。するとエリザ先輩は、「実は私ね、今絶賛仮装中なんだ。どこが仮装か分かる?」と訊ねてくる。

 壁から背を離し、わたしに正面を向け、お茶目に見せつけるように両腕を広げるエリザ先輩。……けれどその姿をどこからどう見ても、ハロウィンの仮装をしているようには見えなかった。艶やかな黒い髪、生まれつきだというみどりの目、えんいろのニットに黒のジャケット、同じく黒のパンツとパンプス――エリザ先輩じゃなかったら地味すぎるくらいのシンプルコーデだ。首元には小さな十字をあしらったネックレスがかかっているけど、いつもかけているものなのでこれは答えじゃない。そしてそれ以外には何のアクセサリーも着けていない。

 じゃあ一体どこが仮装……? とわたしがじろじろ見ていると、エリザ先輩はクスリと笑い、「答えが聞きたい?」と言ってきた。わたしはそれに頷き、大人しく降参した。


「答えはね――」


 エリザ先輩は言う。


「――

「えっ?」

「私の普段の格好そのものが、実のところ仮装だったんだよ。そうだな……、とでも言うべきなのかな」


 エリザ先輩がそう言い終わるとほぼ同時に。


 喫煙ルームの明かりが突然消えてしまった。


 いや喫煙ルームだけじゃない、この階の明かり全部だ。フロアの全ての明かりが何の前触れもなく一斉に落ちてしまった!

 停電!? ――と思う間もなく、わたしは次の異変に気付かされる。

 それは目だった。だ。

 真っ暗闇で何も見えない中、エリザ先輩の瞳だけが、……!


「えっ、えっ? 目が、目が……」

「まあそういう反応になるよね、あなたみたいなはさ。私の生きてきた闇社会のことなんて、普通だったら知るよしもないし」

「闇……? う、裏じゃなくて?」


 混乱のあまり妙なところにツッコミを入れてしまう。

 赤い瞳のエリザ先輩はわたしの方へ歩み寄ると、しめやかに左手で壁を突き、わたしの退路を断ってしまった。

 妖しい視線が真っ直ぐわたしの顔に注がれてくる。


「そう、闇。裏社会の一番深くてくらい領域、それが闇社会。私はね、元々そこの住人なんだよ。闇社会には表じゃ信じられていないようなものが堂々と存在しているの。例えば私みたいな、吸血鬼ヴァンパイアとかが」

「ええっ……!?」

「信じられない? でも、ホント。私のこの目と魔法が証拠だよ。ホントの私は吸血鬼ヴァンパイアなの、訳あってずっと人間のフリをしてたけどね。頑張って太陽の光とかニンニクとか克服してさ」

「は、はあ……でもなんでそんなやばい真実、いきなり教えてくれる気になったんですか……? それもわたしなんかに……」

「今日がハロウィンだから。あとはあなたがこの会社で一番可愛いから」

「え」

「あなたがこの会社で一番可愛いから」

「――――ッッッ!!!???」


 顔が一気に熱くなる。

 今エリザ先輩、確かにわたしのこと可愛いって……! しかもこの会社で一番って!

 ……いや! なんかこれ、素直に喜んでいいところじゃない気がする。だってエリザ先輩は人間じゃない(らしい)んだから。

 とすると、こうしてわたしを舞い上がらせているのにも何か裏があるはずで。……ああ、もしかしてそれは……。


「ねえ……もう一度ハロウィンを楽しませてあげるよって言ったよね」


 赤い視線がわたしの顔から外れ、今度は首筋に注がれてくる。

 エリザ先輩の顔が近づけられて、吐息混じりの声と長い髪がわたしの皮膚を撫ぜる。その感覚がくすぐったくて、わたしの心拍を高鳴らせていく。

 うう、これは絶対喜んじゃいけないやつなのに……!


「私の言うことを聞いてくれたら、もう一度この夜を愉しませてあげる。そしてその“もう一度”は永劫に続くの。来年も、再来年も、十年後も百年後も千年後も、このほろびたとしても」

「言うことを聞かなかったら……?」

「そのときは残念だけど、別の可愛い子を探しに行くだけ。だから選んで、じょうみょうの子――血を捧ぐか、死して尚ほ陽光を望むかトリック・オア・トリート?」

「…………あ」


 そんな、そんなの……。





 ……決まってるじゃん。





血を捧げますトリート

「良い子」


 するとエリザ先輩の唇がそっとわたしの首筋に触れて。

 電撃のような快楽がニューロンを焼いて――次の瞬間、わたしの意識は

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