腹が満ちれば、思いも変わる 2
本日3話目٩( 'ω' )و
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意識が昇る。浮上する。
まどろみの海に埋没していた感覚が、ゆっくりと戻ってくる。
紙や布に垂らされた僅かな水が、広がっていくように。
浮上した意識が、彼女の五感に広がっていく。彼女の五感を広げていく。
「……ここは……」
薄汚れた天井は、見覚えのないものだ。
意識ははっきりしているのに、どこか頭がぼんやりする。
身体は気怠さを訴え、ベッドから起きるのも億劫だった。
「完全に風邪ね、これは……」
昨日の夜、傷心のまま雨降る街をさまよったのだ、風邪を引いても仕方がない。
ましてや途中で意識を失い倒れたのだから。
「……となれば、ここは私を助けてくれた人の家か……」
男物のシャツに、黒いズボンが穿かされている。
男に助けられた――という事実に一瞬、何とも言えない感覚に襲われて叫びそうになるが、ぐっと堪える。
(落ち着きなさいッ、私ッ!)
昨晩、自分が倒れた時のことを思えば、着替えは必要な処置だ。
平民であっても貴族であっても、医者や医術の心得を持つものであれば、服を脱がし身体を拭いてから、ベッドへと寝かせるだろう。
自分が助ける側の立場でもそうする。
貴族として、異性の裸というものは、見てもいけないし見せてもいけないと教えられてきている。
それは、婚姻を結ぶまではありえないものだと言われてきたのだ。
だが、騎士として考えた時、必要とあれば異性の前で鎧や衣服を脱ぐことそのものはゼロではない。
魔獣の毒を浴びた時などは素早く脱いで身体を清める必要があるからだ。
毒の染み込んだ衣服など着続けるわけにはいかないし、毒の付着した身体を洗わないわけにもいかない。
羞恥を気にして命を落とすことほどバカらしいことはあるまい。
まして、毒にまみれたまま仲間と行動するなどというのは、仲間を危険な目にあわせる行為でもあるのだ。
(医療行為としての脱衣であれば、その処置をするものが異性であっても騒ぐ必要はない……)
そう自分に言い聞かせながら、上半身を起こす。
天井からの印象でもそうだったのだが、やはりここは平民の家なのだろう。
平均的な平民の家というのはよくわからないので何とも言えないが、ベッドが置いてあり、上着などが掛けてあるのを見るに、ここは寝室のようだ。
なんとも狭い印象を受けるが。
壁際には小さなキャビネットが置いてあり、その上には祭壇がある。
平民の家には、祭壇室のような部屋を作る余裕がないと聞いていた。つまり、あれが平民にとっての祭壇室の代わりなのだろう。
(……ここの家主の主神は……
祭壇を見れば、赤の神――その眷属である神を示すエンブレムが飾られていた。
この世界に人間は、みな自身が崇める神を一柱信仰する。
そして多くの者は、この世界の在り方を司る
その眷属である
もっとも、珍しいだけで居ないわけではないので、それをバカにするつもりはない。
そもそもこの国の法律において、
『生きとし生けるものが信仰する神の愚弄を禁ず。いかな存在であろうとも、それが信ずる神を、その神を信ずる行為を愚弄してはならない。禁を破りし時、死で購うことになろうとも、国は死をもたらした者を咎めることはない。また生きとし生けるもののいずれかが、不明な神を信ずる場合もまた同様とする。神に罪はなく神の名を口にして咎を為すことが罪である』
……というものがある。
元騎士として、他者の信仰に口を出すなどという恥ずべき行いをする気はないのだ。
そうやってベッドの上から周囲を見渡していると、トントンと部屋のドアをノックする音が響いた。
「起きてるか?」
「ああ。今、起きたところだ」
「入るぞ」
「構わない」
口調は気になるが、礼儀を弁えている者のようだ。
ここが家主自身の部屋だとしても、寝ている者への配慮を感じる。
それでもやはり警戒心が残っているからか、普段の口調ではなく騎士の時の口調で返事をした。
「手当てが必要だったとはいえ、お貴族様を汚いベッドに寝かせちまって申し訳ないな」
入ってきたのは、二十代半ばくらいと思われる人物だった。
あまり手入れのされていなそうな黒い髪と、無精ひげの男だ。
だが、暗赤色の瞳は、強い知性を感じさせる輝きを宿している。
「そこは気にする必要はない。助けてもらったのはこちらの方だ」
「そう言って貰えて安心した。貴族の中には、手当ての為に家に連れてきた時点で打ち首とか叫ぶ奴いるからな」
実感の籠もった言葉に、彼女は思わず訊ねた。
「そのような人物が?」
「王都に住んでた頃にな」
「それは申し訳ないな。貴族を代表して詫びよう」
「こんなコトで詫びてたら、いくら詫びても足りなくなるぞ」
「……そうなのか……?」
「まぁな。貴族から見た貴族と平民から見た貴族の差みたいなもんだ」
言いながら、部屋の中にあった車輪付きのテーブルを引っ張ってくる。
テーブルはベッドの上で使えるような高さのものだ。
「ズボラする為に作ったテーブルだが、こういう時に便利だ」
そう言って、彼女の元へとテーブルを置くと、そこに簡素な形の水差しを乗せた。
「食欲はどうだ? 平民のメシで申し訳ないが、食べれそうなら少しでも腹の中に入れておいた方がいいぞ」
言われて、久方ぶりに空腹を覚えているのに気付く。
ここ数日は、空腹を感じても食欲がまったくなかったのに、不思議なことがあるものだ。
もしかしたら、ドアの向こうから漂う匂いのせいかもしれない。
その柔らかく、どこか甘やかな香りが、自分の食欲を刺激してくる。
やや思案してから、彼女は好意に甘えることにした。
「もし、迷惑でないのなら、頂いても?」
「うちの前で倒れてた時点で迷惑なら掛かってる。この程度なら今更だ」
皮肉っぽい笑みを浮かべながら、彼は水差しから木製のコップへと水を注ぐ。
「ちゃんと浄化してあるから、安心して飲んでくれ」
「ああ。頂くよ」
そうして、部屋を出て行く男を見送ってから、彼女はコップを手に取った。
コップも水差しも平民らしい簡素なものながら、丁寧に手入れをされているのは見てとれた。
口を付けると、想像以上に冷たい水に、彼女は目を見開く。
一口目は驚いたものの、二口目からはその冷たさが心地よく、カラカラだった喉を通り、全身に水分が巡っていくのを感じた。
ただ冷たいだけでなく、水からはほのかに爽やかな香りと風味を感じる。
「これは……
何となく水差しの中を覗いてみると、品種まではわからないものの、
「お水に、こんな飲み方があるのね」
ささやかながらも驚きのある工夫だ。
少し嬉しくなりながら、彼女は二杯目をコップに注ぐ。
二杯目を飲み干した辺りで、再び部屋のドアがノックされた。
「お待ちどうさま」
そう言いながら、彼がテーブルの上に乗せたは、小さな鍋。
その鍋の蓋を彼がはずすと、さきほどから漂っていた柔らかな香気が、より力強くだけど優しく、ふわりと部屋中に広がった。
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本日はここまで。続きは明日になります。
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