第21話 第三章 蠢く影が表に出る時④
街とは、表裏一体の場所である。暖かな陽光に照らされ、穏やかな気持ちに微睡むこともあれば、泥と血に彩られた仄暗くうすら寒い場所で絶望に苛まれることもあるのだ。
――およそ人の声帯から発せられたとは思えぬ苦悶の声、それに付随する打撃音。それは、闇の住人が好む場所で行われていた。
場所は、はっきりとしない。だが、およそ人気のない場所だということは、誰が見ても一目瞭然だ。
窓がなく、カビの不快な臭いが漂うそこは、やけに眩しいスポットライトだけが唯一の光源だ。ライトが照らす男は、パイプ椅子に手足を縛られ、顔面の隅々に至るまで痣と血で染まっている。
「お前ら、こんなことして、ただで済むと思ってるのか? 俺を、誰だと思ってやが」
言葉は唐突に途切れた。男の目の前に立つ、ドレッドヘアーの男が殴ったからだ。
ドレッドヘアーは、興奮した様子で何度も止めどなく殴り続ける。
慈悲は、どこにもない。救いはない……あるいは死だけが。殴って、殴って、殴って、殴って、殴り続けて。――ついに、男は一言も喋ることなく、瞳を閉じた。
「ハア、ハア、ハァアア、よっしゃああああああああ。クソッたれが死にやがったぜ。ざまーみやがれ。俺のことを下にみた罰だってーのぉ」
ドレッドヘアーは、椅子に縛られたまま地面に横たわる男を踏みつけ、蹴りつけた。しばし続いた陰鬱な仕返しは、時間にすれば数秒ほどで終わりを迎える。
「ハハ、おめでとう。これで貴様は復讐を果たしたわけだ」
白々しい音を鳴らして拍手をしたのは、シルビアだ。
彼女は興味なさげに地面に横たわる男を一瞥し、それからドレッドヘアーに歩み寄ると書類を投げてよこした。
その書類には、『業務提携契約書』と記されている。
「ありがとよ、姉さんあんたのおかげで俺たちの会社は、雪辱を果たしたぜ」
シルビアは、表面上は柔らかく笑った。
目の前のドレッドヘアー男は、民間軍事会社ブラッククロウの社長だ。そして、地面に横たわる男は、そのライバル社であるDGの社長である。
この二社は、数か月前からいざこざを起こしていた。
「お前の会社はいつ潰れるんだ?」
――事の発端は、そんなたわいない言葉一つであった。
DGの社長が、ブラッククロウの社長を道端でそのような言葉で罵倒して以来、街で他人の迷惑も顧みずに抗争をしていたのだ。
もともと、この二社はつがい街で鎬を削るライバル社同士で昔からどうにも折り合いが悪かった。とはいえ、そんな小学生のケンカじみたことがきっかけで、街を巻き込んでのケンカなぞ、大抵の人間にとって軽蔑以外の反応を示すことが難しい。
シルビアも、内心は冷ややかであったが、それはそれ。彼女は懐柔の可能性を見出し歓喜した。
「あー、これねえ」
ブラッククロウの社長は、書類を流し読みして笑い飛ばした。
「姉さん、これ、あんたの奴隷になれって内容じゃない」
そう、その通りだ。業務提携契約書とは名ばかりの「奴隷になーれの契約書」である。こんな内容の契約書にサインするなぞ、文字が読める人間であればありえない。
――だが、シルビアはただの女ではないのだ。
「なあ、あ・な・た」
甘く、蕩けるように言葉を紡ぐ。そのわざとらしい声は、ご機嫌取りであることは当然相手にバレている。しかし、シルビアは理性さえ溶かすような魔の美貌を持つ女だ。
たとえ分かっていても、誰でも簡単に跳ねのけられるほど、彼女の誘惑は甘くない。男がどうすればたまらなく自らの体を欲するか、呼吸をするくらい容易にわかるのだ。
「ワッチも鬼じゃないゆえ、ちゃんと褒美はやるとも。また、良い思いはしたくないか」
「う、へへ。ああ、褒美、あるんだ」
「もちろんだとも。……今夜あたりどうだ?」
「へへへ、話がわかるじゃねえか」
道化が、シルビアに襲いかかろうとする。だが、彼女は業務提携契約書を鋭く指差し、ペンを差し出した。
「待て。物事には順序がある。まずはサインだ」
「あ、ああ。仕方、ねえな」
道化が不格好なサインを書類にし、彼女は満足げに微笑む。――そして、道化の頭を優しく抱きしめ、耳元で熱い吐息交じりに言葉を紡いでいく。
「明日から働いてもらおうか。まずは、DGの合併に乗り出せ」
「合併、だと」
道化が、一瞬だけブラッククロウの社長に相応しい表情に戻る。
「そうだ。DGはそこな男が上手にまとめておったから機能していただけで、実際はチンピラとそう変わらん。頭が潰れれば、機能不全を起こすのは必然。だから、合併を提案するわけだ。困ったあいつらは、簡単にこちらへなびくだろうて」
「で、でもよ。なんでそんなこと……」
「馬鹿よな。必要なことだからに決まっている。これが済めば、いよいよ楽しい祭りが始まる」
目を血走らせ、悪鬼のような顔で虚空を睨むシルビア。抱きしめられている道化は、そんな彼女の様子がわからない。
シルビアは冷笑を浮かべ、溶かすように男の背中を、頭を撫でていった。
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