第11話 第二章 奮闘⑥

 もうもうと立ち込める土煙。一切合切を覆い隠すベールは、実にミステリアスだ。固唾を呑んで見守る観客たちの脳裏に、次の展開を妄想させる。


 ――と、猛烈な風が吹いた。カナリアでまことしやかに信仰されている風の精霊が起こす悪戯の風。精霊は、時に強い風を起こし人々が驚くさまを笑うのだという。真偽のほどは定かではないが、ともかくあっという間にベールは剥がされた。


「あ!」と誰かが叫ぶ。果たしてそれは、自らの予想が覆されたからだろうか?


 空の女王シックは、自らの唇を噛みしめた。視線の先には、泥の中にまみれてなお煌煌と強い光を瞳に宿す女が一人……。


 ※


「こんなものですの?」


「防ぐ……だと。あんたみたいな小娘がどうして」


 マリアは、猫のような瞳を細め、微笑した。


「あまり馬鹿にしないで。ワタクシは、キング・ゴールドの姫で終わるつもりはありませんわ。いずれ、……いずれきっと、小鞠社長みたいに立派な気高く強き女性となるのです。そのためにも、こんなところで躓くわけにはいきませんわ」


「……マリア」


 インカムから少し震えた声が届いた。きっと小鞠が泣きそうになっているのだ。あの人は、気が強そうでいて実は涙もろい。


 優しい小鞠の顔を浮かべて、マリアは胸がズキリと痛んだ。


「社長、心配させてごめんなさい。でも、ここからですわ。見守ってくださいまし」


マリアは、泥まみれの手でインカムを撫でる。体の大部分は底なし沼にハマったまま。少しずつだが、下へ沈んでいく感覚がする。


――ああ、こんなことなら、ダイエットしておけばよかったですわ。


 今朝食べたケーキのギルティな味を思い出し、マリアは思わず笑った。


 仕方ない。この窮地を脱する手はある。しかし、恐ろしい。


 全身が僅かに震えたが、ここで引く選択肢などマリアにはない。


「フウゥウウ」


 マリアは拳を天へ掲げた。


 画面越しにマリアの様子を見ていた小鞠は、悲鳴に似た声で叫んだ。


「やめなさい。マリア!」


「分かってしまいました? でも、ごめんなさい。止まりませんわよ、社長」


 マリアは、手のひらに魔力を集約させ、自らの下半身を縛る泥に突っ込んだ。


「ウザったい泥は消えてしまいなさいな。……圧縮して開放する。【バーン・フィスト】」


 派手な爆発音、揺れる大地。焦げくさい臭いが辺りに満ちた。


「無茶をして。……帰ってきたらゲンコツしなくちゃね」


「それは……遠慮していただきたいですわね」


 マリアは、ダンっと力強く地面を踏む。


 体を拘束していた不敬な泥は、蒸発して消えた。底なし沼からただの陥没となった場所に、マリアは一人佇む。……ああ、全身が悲鳴を上げている。無事な所を探すのが難しい。誰のせいだ? 決まっている。あの憎たらしい女? いや、こんな状況を作った己が悪い。


「恥ずかしい。こんな失態を晒すなぞ末代までの恥ですわ。恥はすすがなければなりません。もうブレーキなんて踏んでたまるもんですか。全開ですわ」


 温存なぞ、する気は毛頭ない。


 マリアは、体内の全マナを魔力へ変換し、その行き場を背中へと持っていく。熱いエネルギーが流れていく感覚から、大いなる龍の翼を羽ばたかせる感覚へシフトする。


 事象の確定。魔力でこれから望む奇跡を実現させるために、言の葉を紡ぐ。


「我は龍の友にして、龍の代弁者。ゆえに彼の者が力を借り受ける資格を持つ。さあ、空は誰の物だ? 鳥か、蝶か? 否、豪壮なる龍こそが支配者と呼ぶにふさわしい。空は偉大に染まりて仰ぎ見よ。【ドラゴニック・フェザー】」


 体内から放射された魔力が、背中に龍の羽を形作る。身の丈の三倍はある巨大な羽は、力強く猛々しい。


マリアは、羽を動かし空を舞う。


 見下ろされたシックは、短く悲鳴を上げながら尻もちをついた。


「あ、あんた。イカレてるよ。体中、傷だらけじゃないか。姫様のくせに、傷を厭わないなんて。あたいが知ってる貴族は、王族は、自らが可愛いだけのゲスだ。知らない、知らないよぉ。あんたなんて非常識は。そ、それになんて魔力。シルベよりもあるじゃないか」


「……言いたいことはそれだけ? なら、もう終わりにしましょう」


 冷ややかに宣言したマリアは、杖を構える。


ここで終わるなんて拍子抜けの女。そんな、嘲りの言葉が心に浮かんだ。


 シックは、震えていた。気の強そうな顔が、青白さに染まる。だが、震えはそのままに、顔をぐしゃぐしゃに歪め、憎悪の声を絞り出した。


「見下すな、圧政者! お前らのような権力を持つ者のせいで、あたいの家族は死んだ。絶対、あんたなんぞに負けるものか。死ね、死ね、死ねええええ。何がドラゴンだ。ショボいモノマネしやがって。空はあたいのなんだよぉおおお」


 シックは、懐から小瓶を取り出し、飲み干した。大会では、規定に定められたアイテムの所持・使用が許されている。


おおかたマナの補給剤か何かだろう。――そのマリアの予想は、あっさり裏切られる。


「う、うう、うううううう」


シックは身体を発作のようにビクつかせた。激しく、見ているだけで胸が痛くなる動きだ。


 動きは数秒ほどで止まり、シックは目を開ける。


「なんて、瞳」


 マリアは、口に手を当てる。血の気が引く、とはこのことだ。瞳孔が赤、その周囲が全て黒に染まった目。それが、シックの双眸であった。白目がなく、不気味にギョロギョロと動く。変化はそれだけにとどまらず、彼女の体からは、黒と赤が入り混じったオーラがにじみ出ていた。


「それ、何ですの?」


「これかい? 【パンプアップドリンク】って麻薬さ。魔力ブースト系の麻薬でね、飲めば最高にハイに戦える代物さ」


「麻薬ですって。あなた、ご自分が何をおっしゃっているか分かって? 麻薬なんて使ったら失格ですわ。う!」


 マリアは、手で耳を覆った。


 シックは、化け物じみた声量で笑う。高らかに、愉快そうに……。


 あまりの音量に、観客たちまでもが耳を塞いだ。


「だから? あたいらの会社、エゴ社はねぇ。いわゆるブラック企業だったのさ。働かせるだけ働かせて、利益は皆自分のもの。あたいらは、安月給ってわけ。ムカつくから、この大会で大恥かかせてやろうって、皆と話してたのさ。


 本当は、もっと勝ち上がってからの予定だったけど、あんたらが予想以上にやりやがるから仕方ない。あの二人も使ったし、あたいも使わない手はないさ。……あの妙な男、素敵なものをくれたよ」


(あの男?)


 マリアは、眉を顰めたが、今はそれどころではない。実況席に座る桃毛のククに、視線を飛ばすと、彼女は慌ててマイクにしがみついた。


「これは、いけません。エゴ株式会社失格ですぅ。戦闘をやめてください。指示に従わない場合、運営委員直属の部隊があなた方を拘束します。指示通りに」


「うるさい、フニャフニャ娘」


「フニャ! も、もう怒りました。あの人を拘束してください。規定違反が認められました」


 ククが叫ぶ。運営委員直属の部隊は優秀な戦士ばかりが採用される。すぐにでも闘技場に入り、シックたちを拘束するはずだ。……しかし、いくら待っても入り口から足音が響く様子がない。


「ど、どうしてぇ? ど、どどどどうしよう。え、ええーと。確か、ルールブックに……あった、ありましたぁ。会場にいる皆さん。係員の指示に従って避難してください。違反闘技者をフィールド内に閉じ込めます。エンチャント・ボイスの皆さんは、緊急事態につきエゴ社所属闘技者の拘束にご協力ください。……はれぇ? なんで皆さん逃げないんですか?」


 観客たちは、出口で叫んでいる。何もない空間を拳で殴っている者もいた。


 マリアは、ハッと気付く。あれは何もない空間を殴っているのではない。半透明なフィールドが、観客の避難を拒んでいるのだ。


「ク、アハハ。あの男、やってくれるねえ」


 マリアは、シックを睨む。彼女は、さも愉快そうに体をくねらせた。


「防護フィールドが、外に発生しちまってるよ。一体、何がどうなってるんだか」


「あなたの仕業ですの?」


「いや? けど、どうだっていいさ。気付いているかい? ふつうフィールドは闘技場と観客席を隔てるようにある。でも、今はさぁ、ないよ。フィールドは外にだけ機能してる。これが何を意味しているか分かるかい?」


 スウ、とマリアの体温は下がった。理性を失った狂人が三人。逃げることもできず、身を守るフィールドさえない観客たち。想像せずとも、この後の展開が予想できた。


「さあ、見せてやるよ。絶望の時間をさぁ」


 シックは、漆黒の翼を背中から生やし、空を舞った。


 冷や汗が滲む戦姫と堕天せし空の女王。相克する二人の闘技者が、魔法を放ち衝撃波が迸った。

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