✞第1章

♰Chapter 1:運命の悪戯

はあ、と小さく息を吐いてみる。

流石に白くはならなかった。


季節は春。

景色が桜花爛漫を象徴するなか、オレは凪ヶ丘なぎがおか高等学校の屋上に寝転んでいる。

午前中には入学式を迎え、簡易なオリエンテーションを行った。

そんな日の午後は穏やかであり、完全な自由の時間だった。


「……普通の高校生とはどんなものなんだろうな」


本来、この場所は立ち入りが禁じられている。

それもそのはずで、入れ違いに卒業した旧三年生が浮かれてフェンスを壊してしまったそうだ。

そういう状況にあって当然ながら、関係者から立ち入り禁止の旨が伝達され、施錠されていた。

だが理事長や担任教師の忠告を破り、ピッキング行為の果てに侵入した愚者がいる。


――オレだ。


あまつさえ元のとおりに施錠しておいたので質が悪い。

幾度となく行使してきたテクニックを無意味に近しいことに利用している。

この行動が愚かでなくて何なのだろうか。

だが愚かであっても、その行動に意義はあった。

こうして人目のない静穏な空間を手にすることが叶ったのだから。

もっともその行動の結果、概ね普通の高校生の地位はなくなりつつあるが。


それからオレは携帯小説を読み耽ったり、転寝をして時間を潰した。


――きっと来るはずだ。


遥か上空に星々が瞬き始め、高層ビル群の人工灯が映え始めた頃。

とん、と小さな音が響いた。


「やっと、見つけたわ――八神零くん」


次いで清澄な声が鼓膜を震わせた。

視線を移すと薄手のコートに身を包んだ少女が立っている。

濡れ羽色の髪に、切れ長な瞳は知性を思わせる深い青だ。

整った目鼻立ちだけでなく、衣服から覗く白磁の肌や物憂げな雰囲気までもが垢抜けていると言って差し支えないだろう。

夜が支配しようと時を進めているなかにあって、彼女だけは時の停止を錯覚させるほどの美しさがあった。


オレが待っていた人物は彼女だ。


「……オレに何か用か? オレの名前を知っているようだが」


暗にお前の名前を知らないと示す。

もちろんそれはブラフで眼前の少女を知っている。

同じ学級に配属された以上、他人の自己紹介を意識せずとも脳が記憶に留めてしまう。

まして隣席が彼女で、あの冬の夜と同じ声音を持つのならなおのことだ。

あの時は今よりも暗く動きが速かったために具体的な容姿は確認できなかった。

だがこうして視線を交わすことで初めて眼前の少女があの夜の少女に重なった。


「そうね。八神くんが思い出せないのも無理はない。たった一度自己紹介をしたくらいじゃね――改めて、私は水瀬優香みなせゆうか。貴方のクラスメイトで、貴方と仲良くしたいと思っているの」


口元に微笑みを湛えてくれるが、生憎とオレには笑顔や微笑と言ったものの持ち合わせがない。

こんな時に愛想笑いでも浮かべられたならどんなにかいいのだろうなという思考が過る。


「そうだったのか。それはそうとオレから質問をさせてもらいたい。一体どこからどうやってこの場所まで来たんだ?」


確実に屋上へ通じる扉は施錠し直しておいた。

それでもここに来れたという事実は言い逃れしようもなく、彼女がオレの求める答えを話さざるを得ないはずだ。


水瀬は湛えた微笑を申し訳なさそうに変化させる。

少しの間を開けたあと、気まずげに言う。


「……私が正直に話してもきっと嘘だって言うと思う」

「それは実際に聞いてみないことには分からないだろう?」


今なお水瀬は葛藤に苛まれている様子ではあったが、オレの瞳を見てはっきりと言い切る。


「『』で身体を強化したのよ。あとは地面から跳躍して今に至るの」


納得、と言うよりは確認に近かった。

やはり三か月前に見たあの光景は魔法の実在を証明するものだったのだ。

あれからしばらくの間は幻ではなかったかと何度も首についた傷に触れたものだ。

やけに治癒が遅く、今でも見れば傷跡がそこにある。


「分かった。概ね真実だと思うよ」

「……どうして信じてくれるのかしら?」


水瀬は首を小さく傾げる。

当然ながらその表情は訝しげだ。

彼女の言うことはほぼ真実だろうが、訝しげな表情は嘘――すなわち“作り物”だと経験が告げる。


オレはこの時点で面倒事の回避が不可能であることを察していた。

つまりは互いが互いの存在をあの冬の日に会った人物だと確信しているがゆえに、種明かしの段階に移ったのだ。


「水瀬がそう言ったんだろう?」

「それはそうだけど……少し、ごめんなさい」


そう言うとオレに近づき、手を取る予備動作に入る。


「すまないが、オレに触れないでくれ」


オレが手を引くと水瀬は行き場をなくした自身の手を胸元に戻した。


「ごめんなさい。触れられるのは嫌だった……?」

「別に水瀬に限ったことじゃない。あまり他者に触られたくないんだ」

「そう……だったのね。なら、少しだけ動かないで」


今度はオレの近くに手のひらを添えると薄く水色の光が灯った。

わずかな時間ののち、オレの襟元を指す。


「襟の部分を広げてみてくれるかしら……? 多分そこに貴方があの夜あの場にいたかどうかが分かる証拠があると思うから」


オレは無駄な抵抗をせず、襟元を除けると首元を露わにする。


「やっぱりあったわね。魔力の痕跡よ」


元々が無表情ゆえに顔には出ていないだろうが、オレは興味を抱いていた。

魔法と魔力、そしてそれらの傷との関係性は未知だ。


「どうしてオレに傷があると分かった?」

「あの夜に八神くんが去っていった方向にちょうど身を隠せそうな茂みがあったの。そこは私が戦っていた人が氷片を放ったところだったから、もしかしたら怪我をしているのかもしれないと思ったのよ。当て推量だったけれど、傷があってそこに魔力の残滓が残っていたわ――じっとしていてね」


そう言うと水瀬は制服のポケットから親指ほどのクリスタルを取り出す。


起動トリガー・オン


あまりにも短い起句を唱えると結晶が砕け、微粒子と共に首元に温かな気配を感じる。

まるで優しい日の光に当てられているかのような、そんな感覚だ。


「見てみて」


そう言うと水瀬は手鏡をオレに見せる。

そこに映る首元からは確かに傷跡が消えていた。


「ありがとう、と言うべきか」

「いいえ、あの人との戦いに巻き込んでしまったのは私の落ち度よ。だから気にしないで」


水瀬は傷跡がすっきり無くなったことを確認すると、コートの内側から白布の包みを取り出す。

それから細い指先で一枚、また一枚と捲っていく。


現れたのは黒塗りの短刀だ。

あの日、血に濡れたはずのそれには血糊が全く付着していない。

ノングレア加工を施されたそれが使用前と同等の質感に戻っている。


「これに見覚えがあるわよね……?」

「……オレのだったものだ」


感情表現が不得意なオレにも物に対する愛着はある。

それが自戒の証であり、罪過を忘却しないための楔ならなおのことだ。


「持ち主が見つかって本当によかった」


水瀬は手に持つ短刀を白布ごと手渡してくる。

そして今度ははっきりと笑った。


「あの時はありがとう。八神くんがいてくれて助かったわ。あれからね、ずっとお礼が言いたかったの」


それが入学式の時からオレを見ていた理由だろうか。

今日一日中、居心地の悪い視線を受け続けて落ち着かなかった。

だからオレはその視線の送り主であり、冬のあの日に遭遇した少女らしき彼女を待っていたのだ。


これまでのやり取りからすでに彼女があの夜に会った人物であることは間違いないことが確定した。


「それはありがたく受け取っておくが、水瀬はただオレに物を返しに来たわけじゃないだろう? 現実的に考えてこういう場合、オレは見てはいけないものを見てしまったという流れだ。魔法がある時点で現実的と言うのも曖昧なものだけどな」

「ふふ、ええそうね。八神くんは魔法の実在を見てしまったから」


水瀬はそう言うと、胸の前で手のひらを夜空に向ける。

すると五つの魔法陣が横並びに出現した。

それぞれが複雑な紋様を描き、赤・青・緑・黄・白と色が異なっている。

さらには淡い光の微粒子が立ち昇っては消えていく。


黄昏時を経た宵闇に浮かぶ魔法陣は幻想的でとても綺麗だ。


「これが魔法を行使するための力――『魔力』よ」


水瀬は今まで以上に真剣な表情で言う。


「八神くんはなぜもう一度見せるのかって思っていると思う」

「ああ、そうだな」

「実はね、八神くんにも魔法を使うことができる才があるの。さっき貴方の近くに寄ってはっきりと感じたわ。だから素直に言うわね――私の相棒になってほしい」


唐突に『相棒』と言われるが、イエス・ノー以前に何を指すのかが不明瞭だ。

だが今はそれ以上に気になることがあった。


「その返答をする前に、水瀬の目的を教えてほしいな」


水瀬の存在を認知してからは警戒レベルを上げていたのでその気配に気づいたのだ。

見ると水瀬は困惑したようにまなじりを下げている。

その仕草には演技臭さが微塵もない。


オレは溜息を吐きながら水瀬の後方へと移動し、一見何もないように見える空間へ軽く手を伸ばす。

すると確かな感触と共に人の温かさが伝わり、それと同時に制服姿の茶髪の少年が姿を現した。


「いやー参ったな……。八神くんって鋭いんだね。僕の隠密を看破できる人なんてそうそういないんだよ?」

「なぜ貴方がここにいるのよ――伊波くん!」


すかさず水瀬が割り込んだ。

二人の具体的な事情を知るわけではないので、オレは静観を決め込む。


「ごめんよ、ユウ。でも君のことが心配だったから、つい……」

「貴方がこの場に現れたから話がややこしくなったのよ……?」

「ほんとにごめん! どんな人が相棒になるのかって、気になって仕方がなかったけど――でもそっか。八神くんか~」


そう言うと伊波は口元に手を当て、超至近距離からオレを眺め回す。

さながら小さなヒントを搔き集めて推理する探偵のようだ。

そんなに見たところでオレの内面の一割も知ることがないだろうに。

初対面の人間に対して不躾な態度を取り続けたあと、やがて納得したようにうんうんと頷いた。


「自己紹介が遅くなってごめんね。あ、あとじろじろ見ちゃったことも。僕の名前は伊波遥斗いなみはると。よろしくね、八神くん」


純粋な笑顔を振り撒きながらオレに握手を求めてくる。


「……オレは八神だ。よろしく」


伊波の細い外見や軽快な話し方と比べて手の皮膚は厚く、何かスポーツをしていたのではないだろうか。


「伊波くん、そろそろいいかしら?」

「あ、ごめん! 僕は知りたいことも知れたし、帰るよ。またね」


嵐のように去っていく伊波をオレは見送る。


「本当にごめんなさい。彼はとてもいい人なんだけど……」

「ああ、別に構わない」

「なら遠慮なく話を戻させてもらうけれど、私や伊波くんの目的だったわよね」

「それを聞かないことには判断がつかないからな」


伊波の乱入にも意味がなかったわけではないようだ。

水瀬自身は無自覚だろうが、纏う雰囲気が先と比べてだいぶ柔らかくなっている。

例えるなら氷塊から冷水くらいには。


「私たちは〔幻影〕の一員。その目的は魔法を行使するしないに関わらず、日常を脅かす組織や人物から人々を守ること。端的に言うのなら一般人の守護ね」

「ならオレに異論はない」


水瀬は「本当に?」といった表情で覗き込んでくる。

オレの返事があまりに即答だったため、その真意を図りかねているのだろう。

もっともな反応ではあるが水瀬たちの目的自体はオレの目指すことと一致している。

そうすることで偽善であろうとささやかな懺悔にはなるだろう。

過去の過ちは消せずとも、その禊のために現在を使うことはできる。

そして未来でもこの命が尽きるまで贖罪をして回る。

だからこれといって断る理由はない。


それに意志を持つ人間はいくら突っぱねたところで頑なだ。

結果が変わらないのなら過程はできる限り短くしたい。


ただこの言葉には続きがある。


「が、一つだけ条件がある」

「何かしら?」


水瀬の目的は聞いた。

見聞する限り、嘘を見出すことはできなかった。

つまり語られた言葉の九割は真実と思っていい。

だが残りの一割は直に触れてみるまでは分からない。


「水瀬の相棒になるのはもう少しお前と言う人間を知ってからにしたい。それに〔幻影〕という組織のこともだ。だから今は仮相棒という立ち位置にしてくれないか?」

「仮、相棒?」


言葉の意味を嚙み砕くように繰り返す水瀬。

その様子からは腑に落ちていない感覚を得ることができる。


「ああ。〔幻影〕に、そして水瀬にこれから一週間程度協力しよう。その間、様々な情報を得るだろう。それらを咀嚼してから改めて水瀬の相棒になるかを決めたいんだ」


オレの心のなかには二つの障壁が存在する。

どちらも疑念と不信で構築された強固かつ分厚い壁だ。


――内壁は組織に対するもの。

――外壁は個人に対するもの。


個人を認めて初めて組織を認めることができる。

双璧の中心にいるのはオレだけだ。

そこには信頼し、信用するものしか存在しない。

だがオレはもう二度とどんな組織もどんな人間でも心からの信用はしないと固く決めている。

だからこそ、時に信用とは別に利害関係で構築される『契約』がある。

今回のケースは“魔法に関する知識を得る”代わりに“仮に服属する”というそれに当たるだろう。


「分かったわ。八神くんも突然色々言われて、信用も何もないものね――改めて私は水瀬優香。これから仮相棒としてよろしくね」


水瀬は残念そうな表情を、それを上回る喜びで笑顔に変えていた。


……それほどに嬉しいものだろうか。


オレには正直理解できない心の機微だ。

だが水瀬と言う綺麗な少女の笑顔が見れてよかったとは思う。


「こちらこそよろしく頼む、水瀬」


彼女から差し出された左手は氷のように冷たかった。

よく心の温かい人は手が冷たいとか、その逆も聞くがその真偽はどうなのだろうかと無為なことに思考が行く。


だが間もなく中断することとなった。


「……ねえ、最初から気になっていたんだけど、八神くんはなぜこんなところにいるの?」


……もっともな質問だった。


水瀬に本題があったとはいえ、むしろ今まで突っ込まれなかったことが奇跡だ。

普通、暗くなってから屋上になんていない。

きっと彼女はオレに奇特な印象を抱いているに違いない。


「……外で眠るのが好きなんだ」


もちろんそれは嘘だ。

オレに親はいないが自宅も持っているし、決して外眠りが好きなわけではない。

屋上にいた理由の一つは、万が一命の危険に晒された時、ここが一種の囲われた空間であり、不思議な力――魔法を行使されるまでに相手を仕留められる可能性が高いからだった。

もう一つの理由もあるがほぼ初対面の水瀬に話すことではない。


「そう。春とはいえまだ寒い日もあるわ。風邪、引かないようにね」


それから水瀬はまた明日ね、と言い残すと踵を返し校舎の屋上から飛び降りた。


オレはフェンスの破損箇所から正門の方を見下ろす。

水瀬は何食わぬ顔で学校の敷地内から出て行った。


「……魔法、か。使えるならやっぱり便利だよな」


火炎を放ったり、何かを凍結させてみたり。

あるいは空を飛ぶことだって夢ではないかもしれない。

それ以上に過去を改変することも。

あれこれ考えていると今夜は眠れそうになかった。

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