十九本目 好きだった、セブンスター・メンソール・12・ボックス

 煙草をやめて暫くすると煙草を吸う夢をみるらしい。これは煙草をやめた人誰もが口を揃えて言う。


 私も、最初にその話を何処かから聞いた時には、そんなまさか……とは思ったが、どうやら本当のことだったみたいだ。


 基本的に、人はどんなことだって自分で体験してみないとわからないように出来ているらしい。


 夢の中で、私は『ああーついに、ついに吸ってしまった!』と思い、せっかくここまで禁煙していたのに……と思う。


 そしてまた不思議なのだが、目が覚める前にその夢をみるんだ。で、目が覚めて『ああ、夢だった。良かった』と思うんだ。


 当たり前だけれど、部屋には煙草も灰皿もライターもない。あ、ライターはあるか。懸賞で当たった、私の吸っていた銘柄のライターが。もうしばらくオイルを入れてないから、オイルを買って来ないと使えない。


 もっとも、使うつもりもないけれども……。キャンプとかアウトドアが趣味になれば、使える可能性もあるだろうから捨てはしないけれど。別にとてつもなく大きいものってわけでもないし、机にちょっと入れておけば良いだけのこと。久しぶりに探して手に取ってみたら、それは不思議なくらい自分の手に馴染んだ。


 もうかなり傷がついているけれど、それさえもなんだかクールに見える……気がした。思えば、この時点で私は煙草が吸いたくなっていたんだと思う。



 私が煙草を吸い始めたのはたしか、大学に入ってから少し経った時だったと思う。私は二浪したので、大学に入学してすぐに二十歳になった。少しの間は吸う気なんてなかったけれど、二年間の空白期間を経て入学した大学は、私の想像と全然、全然違っていて、はっきりいうと糞だった。


 私は馬鹿だった。大学名で全てが解決すると思い込んでいた、馬鹿な人間だった。それ以降、私はネームバリューという空白には関わらないようにしようと、心に誓ったのだ。それはただの名前で、少なくとも、私の芯には一切響かないし、届かないし、意味のないものでしかない。


 そんな空白の大学生活でも、少しは救いがあるものだ。それはウィークデーの社会人生活のオアシススポットのように、儚くも手を伸ばせば届きそうで届かないくらいの透明なものなのだが、確かに存在する。


 正直な話、それがなかったら間違いなく私は大学を辞めていただろうと思う。そして、大学中退でも入れる会社に入って、せっせとウィークデーを働くだけのマシーンになっていただろう。土曜日と日曜日だけが楽しみな、そういう存在に。



 真面目に受ける授業と授業の合間の空白の時間、私は図書館で本を読むことにしていた。春から夏になったとき、私は同じ机の対角線上にいつも同じ人がいることに気がついた。


 図書館は席が埋まっているというほどではなく、かと言ってガラガラというわけでもない。だから、私みたいにいつもの時間にいつもの席に座っている人がいたっておかしくはないのだが。


 私が本を閉じて彼の方を見ていたら、彼も私の視線に気がついたようだった。彼は私を見て会釈して、本を閉じて外を指差す。多分、一緒に外に行こうという意味だと思う。私も本を閉じて彼と一緒に外に行くことにした。


 行動と運命とは不思議なもので、何を選んでも、選んだ方がその名前で呼ばれてしまう。ま、そんなのはいいよね、別に何だって。彼は文学部に通う学生で、いかにもな文学青年、って感じではなかった。


 それでも、彼はかなりの読書家で、図書館の文学作品を全部読んでいるではないかってくらい、いつも本を読んでいた。私はあまり本を読まないし、その手のものに詳しくもない。だから、彼がどうして私を選んだのかが不思議だった。



「君は煙草がよく似合う人だ」


 時々、そんなことを言ってきた。


「それって褒めている?」


 当然の疑問だ。


「もちろん。似合わない人はとことん似合わないからね」


「その基準って何?」


「……」


 彼は説明する気がない時、あるいはこれは説明しても伝わらないだろうなと彼が思った時、そういう説明を一切せず、沈黙を選ぶ。最初は、ただ言いたいことを我慢しているだけなのか、と思ったけれども、どうやらそうではないらしい。


 一度、珍しく彼がかなり酔っ払った時に、そのことを詳しく説明されたのだが、私の感想としてはただ、なるほど! そういうことだったのか! というのだけだった。


 だからと言って、別にすれ違いがあったとか、相手に対して頭に来たとかってわけでもないんだ。



 彼のことは、やっぱり最後まで好きだった。



「一緒に電車に乗るのも、もう最後かな」


 成田空港に見送りに行く電車の中、彼がそう呟いた。


「うん、どうだろう。もしかしたら、次があるかもしれないよ」


「……いや、多分……。多分、ないんじゃないかな」


「そう思う?」


「うん……残念だけどね。でも、何かを選択する、ということは、選択しないものもできてしまう。そうじゃないか?」


 私は、何も言わなかった。一体何が言える? 彼が選択しないもの、そのものの私に?

 

 事実、あれからもう十五年は経つが、彼は一度も帰国していない。いや、もしかしたら帰ってきているのかもしれないが、少なくとも、私には一切、連絡をよこさないのだ。


 そんなことを思い出したのは、多分今朝見た夢のせいだろうな。もう煙草を吸わなくなって何年だろうか? セブンスターのメンソールが、私のお気に入りだった。途中、ディープメンソールに変わって、そのあと今のメンソール・12になった。どれも、芯は変わっていないと思う。今買って吸っても、多分同じ味がすると思う。


 会社から帰る途中、コンビニに寄った。レジは混んでいて、並んでいる時はその銘柄を買うつもりだったけれど、前が一人になった時、やっぱり買うのをやめてレジの列を離れた。


 どうして買わなかったか?


 多分、私は彼が海外に行った時に、煙草をやめるべきだったんだろうと思う。


 でも、ちょっと前まで買い続けてしまった。


 それも、きっと間違いだったんだろう。


 家までの途中、自動販売機でブラックコーヒーを買った。そう言えば、彼は缶コーヒーが好きじゃなかったな。本物じゃない、とかなんとか言ってさ。


 じゃあ、一体本物ってなんだろう? 私は、煙草を買わなかったことを後悔したけれど、やっぱりそれでいいんだと思い、缶コーヒーを飲みながら家に帰った。


 今もし、吸っていた煙草を買って、全く別の味になっていたら、きっと、その時の良かった思い出さえ、無くなってしまうんじゃないか、って思ったから。

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