十七本目 探し物、ダンヒル・ワン・ボックス
御茶ノ水で楽器屋を冷やかし、坂を降りて古本屋を何店舗か覗き見る。しかし、別に何かを探しているというわけではないから、どうしてもただの時間潰しになってしまう。
しばらく歩くと流石に疲れてきて、しかも煙草を吸いたくなってきたので店を探すことにした。もちろん、喫煙可能の店を、だ。これがまた一苦労だったのだが、なんとか僕はその店を探し出した。
店に入る時に店員に『喫煙可能でしょうか?』と聞くと頷いたので、僕は安心して店に入る。席に案内されると、なんとテーブルに灰皿が置いてある。てっきり、最近よくある、二、三畳くらいの隔離された喫煙室があるのと思っていた。
「今日日、席で吸えるのか……」
思わず独り言が漏れると、それを聞いていた店員が頷いた。席に着くと、隣にいる男は飯を食べている。彼の隣には何が入っているのか、大きな紙袋が置かれている。
僕は飲み物を注文して煙草に火をつけた。念のために、隣を見た。もし迷惑そうな顔をしていたら、すぐに消さなければならないだろう。たとえ喫煙可能の店だとしても。
「良い香りですね、なんという銘柄ですか?」
と、隣の男が僕に問う。
「ハイライト・メンソールです」
「ハイライト。良い煙草ですね」
その人はなんだか奇妙な印象の人だった。聞けば、最近生産中止になった煙草を探しに、長野から出てきたとのことだった。秋葉原で煙草をあるだけ買い、そして都内見物がてら、御茶ノ水まで歩いてきたとのこと。
秋葉原から御茶ノ水まで歩くのはちょっとした距離だと思うのだが、それは僕が電車でしかそこを通らないからかもしれない。
「なんていう煙草を探しにきたんですか?」
僕はその銘柄が気になったので、彼に聞いてみると、彼は紙袋から一つ取り出して僕に見せた。
「ダンヒル・ワンです」
僕はその煙草を初めて見た。それを伝えると彼は一度頷いてから話し始めた。
「今の感覚から言うと、俄には信じられない話ですが、煙草がステイタスだった時代があったんです。その頃はいろいろなブランドが煙草の銘柄になっていたんですよ。例えば、ミラ・ショーンやイヴ・サンローラン。あとはカルティエもあったかな。どの銘柄も、不思議とノン・メンソールとメンソールの二本立てでね。
そして、このダンヒルも、です。ダンヒルは一番銘柄数も多くて、自販機にも入っていたんですよ。個人的な印象ですが、自販機に入れて勝手に売っているような銘柄とは違って、この銘柄だけはメーカーもなんとか売ろうとしていたような気がするんですよ。おそらく、味に自信があったんじゃないかな。
とは言っても、さっき名前を出した銘柄が、味に自信が無かった、とは思いませんけれどね。あくまでも、私の個人的な印象です。
ダンヒルは、何度かリニューアルもしていてね。面白いのが、煙草の先端を巻紙で閉じていて、煙草葉がこぼれないようにしていた時期もあったんです。力を入れていない銘柄にそんなことはしませんよね。あとは、ボックスを開けた時にある銀紙がシールになっていて、密封できたりね。
でも、とうとう先日に生産中止になりました。加熱式全盛になりつつある今の時代、売り上げの悪い銘柄は生産中止です。同じメーカーのポール・モールも無くなりましたしね」
僕のハイライトはもう根元まで灰になっていたので、新しい煙草を取り出して火をつけた。彼は続ける。
「私がこの銘柄を知ったのはもう二十年くらい前になると思います。当時は私もまだ大学生でね。当時は今と違う、かなり渋いデザインだったんですよ。
そのころから華やかさのあるラッキーストライクや、白と緑のコントラストが美しいクール、城のデザインだったケントに混じって、この銘柄はそこにあったんです。買ったのはただの気まぐれだったんですが、吸ってみるとあまりにも美味くて驚いたんです。
少し、マールボロ・ライトに似ている味なんですが、こっちの方がコクがあってう旨みが深い。こんなに美味い紙巻があるのかと驚いたんです」
「今は、煙草のデザインを語ることはできないですよね」
「そうですね、でも昔から変わっていないデザインはまだ語りようがある気がします。君のハイライトや、ラッキーストライク、セブンスターのようにね」
僕は手元のハイライトを改めてじっくりとみてみる。たしかに、元のデザインをうまく、アレンジしてあるような気がしなくもない。
……警告文は最低だが、煙草をやめさせたいが中毒にさせて金は欲しいという高度な矛盾の上に成り立っている商売だ。だからこうなるのも仕方ない。
「ハイライトは日本の煙草ですね。私のダンヒルは昔はアメリカ製だったんですよね。でも、そのあとにいろいろと変わってしまってね。厳密には、生産国が変われば味も変わっているはずだと思うんですよ。
生産している国が変われば、その銘柄が持っている空気も変わるだろうし、日本に来る入ってくる期間も短くなったりするだろうし。でも、これ以上の銘柄に出会うことはなかったですね。
だからこの銘柄がなくなったら……近いうちに無くなるんですが、手持ちがなくなったら煙草はもうやめるでしょうね。ずっとあると思っていたんですけどね。
そんな当たり前のことに気がつかなった馬鹿な私です。でも、久しぶりに東京まで出て来れてよかったです。煙草も沢山買えましたからね。私の地元ではもうほとんどないと思います」
彼のそんな話を聞いて、自分はどうして煙草を吸っているのだろうか、なんてことを考えた。最初はなんとなく、で手を出したような気がする。そして気がついたらいつも手の中にある。
殺意を持ったパートナー、とでも呼ぶべきなのか。
「おっと、もうこんな時間だ。お付き合いありがとうございました。こういうのも、煙草呑み同士ならではですよね。では、さようなら」
彼はそう言って店を出て行った。彼は多分、『今あることはこれからもずっとあるわけではない、間抜けは絶対にそれに気が付かない』とでも言いたかったんだろうと思う。確かにそうだ。
少なくとも、明日は今日と違う。ささいな違いかもしれないけれど、塵も積もればその差は間違いなく大きくなるはずだ。僕は三本目の煙草に火をつけた。煙草を吸えるのも、ここがあるのも、僕が生きているのだってすべて期間限定だ。
「馬鹿はそんなことさえ気が付かない」
「はい? 注文ですか?」
さっきの男の食事を片付けている店員が、僕に聞く。僕は適当に何か、食べられそうなものを注文した。
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