八本目 煙のこれから、センティア・フレッシュ・エメラルド
いつもの喫煙室、扉を開けて中に入ると、煙草の匂いが鼻につくようになってしまった。勝手なもんだ、自分だって、ついこの間までこの匂いの元だったってのに。
喫煙者でさえ、加熱式に変えるだけで、こうも煙草の匂いが気になるってんだから、非喫煙者にとっては、煙草の匂いなんてもう最悪なものでしかないんだろうな。そういうのを実感するたびに、喫煙者ってのはもしかして、ものすごく身勝手な存在なのかもしれない、と実感せざるを得ない。
もちろん、自分がそこにカテゴライズされていることも含めて、だ。まあ、考えても仕方のないことなんだけれども。扉を閉める。
ちょっと前だったら、煙草を箱から出して、唇にくわえて、ライターで火をつけて、煙を吐く、というのが一連の流れだった。まあ、煙を吸うまで数十秒、ってところだよね。
ところが今は、デバイス(なんて格好つけた名前になっているが、ただの煙草を吸うための道具でしかない)に煙草をさして、ボタンを押して、その後数十秒待たなければならない。
この時間、案外苦痛なんだよな。たった数十秒、他の人から見たら煙草を吸っている時間の方が無駄だろう、と思うかもしれないけどさ。それを言ったら元も子もねーだろ。自分たちは喫煙者なんだからさ。しばらくすると、デバイスが震える。ようやく喫煙開始だ。
最初は、なんだか違和感があったんだけれど、一週間くらいしたら慣れてしまった。現金なものだ。結局、ニコチンの摂取さえできればいいのかって気になって、なんだか空しくなる。
だって……あんなに必要だと思っていたライターも副流煙も、無くなってしまったわけだから。あるのは手のひらに収まるデバイスという名の良くわからない喫煙具と、自分の吐いた煙だけなんだから。正直、ここまでして吸う必要あるのか、とも思う。
だけど。
だけど……まあ、言ってしまえば悪くないんだ、そんなに。
職場の喫煙所で吸っていると、大体こんな感じの会話を繰り返すことになる。
「お、ついに煙草変えたの?」
「ええ、僕もデビューしましたよ」
「俺も何回か試したんだけど、どうも合わなくてね……。なんて言うかさ、ケミカルっぽさがないかい?」
「そういう意見も、結構聞きますし、僕もそれは確かに感じてはいたんですけど……」
「慣れちゃったって?」
「そうです。不思議と、慣れちゃったんですよ」
「そう思えるだけ羨ましいよ」
そう言って彼はウィンストン・キャビンを取り出して火をつけた。いや、羨ましいのはあなたですよ。僕はもう、紙巻きを吸うことさえ、できませんから。
当たり前だけれど、メーカーは加熱式煙草に対して良いことしか言わない。こんなに害が減るんですよ、と……。でも、よく考えてみると、別に紙巻き煙草に対しても、何も言っていない気がするんだ。
軽い煙草やメンソール煙草に爽やかなイメージ広告を打つけれど、そこにはどこにも健康ですよ、なんてことは書いていない。
僕自身は、そういうの抜きで、純粋に煙草の味が好きだから、という理由で吸っていると思っていた。しかし、それももしかしたら違うのかもしれない。気がつかないうちに、何かの中毒になっていたのかもしれない。精神的なものも含めて。
この煙草に変えて、もう一つ大きかったのは誰かと共有できない、ってことだ。例えば紙巻きなら一本くれ、と言われてもライターさえあれば問題はない。
さっとパッケージを振ってその人に煙草を渡す。彼、もしくは彼女はそれを受け取って火をつける。煙草の火が消えるまでの、ちょっとした会話。そう言うことが。
「申し訳ないんだけど、一本貰える?」
「いいですよ、メンソールだけど良いですか?」
「いい、いい。こっちが貰うんだからさ。……お、クールか」
「クール・マイルドです」
こんな感じの、ね。特に、ソフトパックだと楽だ。丁度いい感じで渡せるから。ところが今はそれもできない。それってなんだか悲しいような。
「それって、新しいのに対応しているやつ?」
誰かに声をかけられたみたいだ。
「そうです。この間、出たばかりのやつですよ」
「申し訳ないんだけど、一本貰っても良いかな?」
「いいですよ、吸ってみてください」
珍しいこともあるもんだ、と思ったのだが、ここの喫煙所自体が『加熱式煙草専用』となっていた。となると、こういうこともあるんだな。しかし、元々は紙巻煙草も吸えたんだろう、と思う。壁に染みついた煙草の匂いと色が変わった壁紙は、そう簡単には消えないんだろうな。
「へえ、加熱式で、こんなにメンソールが弱い煙草なんてあったんだ。どれも舌が痛くなるくらいメンソール強いよね。それってやっぱり、後味を誤魔化しているってことなのかな。後味が変だよね、加熱式ってさ」
「そうかもしれませんね。加熱式って、後味に苦味があると言うか。この煙草は、紙巻きでいうセーラムとか、クールみたいな感じでメンソールとのバランスが丁度よくて美味いんですよ」
「確かに、これは良いね。美味しい」
それは社交辞令なのか、それとも本当に美味いと思っているのかは判断しかねる。僕と彼女はたった今、この場所で会っただけだから、細かいニュアンスは分からない。
「ここって加熱式専用だよね」
「そうみたいですね」
「でもさぁ、君、ここまでして煙草を吸いたいかって、疑問に思うことない?」
「それは……正直、ありますよね」
「だよね。実はさっき吸い終わったこれ(そういって彼女は空のテリア・ブラックメンソールの箱を出した)でもう終わりにしようと思ったんだ。私が吸っていたのがマールボロのブラックメンソールだったから、これにしたんだけどさ。やっぱり紙巻きとはちょっと違うっていうか、物足りなさがある気がする」
「そうですね……」
それは、僕も何度か思っていたことだ。僕たちはそこで会話を終わらせて、何も言わずに煙草を吹かす。沈黙を埋めるには、加熱式では煙が足りないような気がする。
「でもね、多分やめられないと思うんだ」
「……僕もですよ」
僕は煙草が好きだと思っていた。そして、興味本位とは言え加熱式に変えた。でも、その先に何があるのか、なんて考えたくなかった。
煙を吸う。微かなメンソールと、紙巻きとは違う加熱式特有の苦みが口の中で混ざる。何度か吸っていると、考える気をなくした。今はもう、考えるのはやめることにした。煙草を吸っている時くらい、何も考えなくたって良いだろう。
これから先どうなるかなんて何もわからない。だけど、僕は僕だろう。深く自分に入り込んでいたせいで、テリアを吸っていた彼女が喫煙所から出ていったのさえ、気がつかなかった。
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