六本目 緑の記憶、マイルドセブン・メンソール
煙草か……煙草は吸わないんじゃないかって?
私も昔は煙草を吸っていたんだよ。
懐かしいなぁ……
その、煙草を吸っていた感覚が、ね。
不思議だよね。
もう何年も煙草なんて吸っていないのにね。
吸っていた時の感覚は今だに覚えているんだよね。
煙を吐く、煙草の匂い。
どうして私が煙草をやめたのかって?
そこには全然複雑な事情なんてなくてさ。
単純に吸っていた煙草がなくなったからだよ。
生産終了。
なくなった理由?
純粋に売れなかったからだろうねぇ。
はっきり言って、ここらへんじゃ売っているの、全く見なかったから。大きい煙草屋に行かないとなかったんだよ。
今もその煙草屋があるのかどうかは知らないけれど、秋葉原にある大きい煙草屋で買ってたんだよ。毎回、カートンでね。その煙草屋の前には自販機もあってさ、そこにも入っていたんだよね。
マイナー銘柄も自販機に入っていて、都会だなぁ……なんて思ったよね。見たことない銘柄も沢山あったしね。今どの程度残っているのかな。
ちょっと待って。その煙草がいつなくなったのか調べてみるから……。便利だよね、スマートフォンって。でもさ、いくら便利でも、なくなった煙草を再現する、なんてことはできないんだよね。当たり前か。メーカーの言う、お勧めの代替銘柄を吸うことしかできない。
当時は今で言うガラケーでさ。ラインとかメッセージなんてなくて、ずっとメールだよ。誰もが、メール問い合わせのコマンドを儀式のようにやっていたんじゃないかな。そうそう、チェーンメールっていう意味不明なのもあってさ。内容はどれも一緒なんだけど、恐怖を煽るメールでさ。
今考えるとくだらないことなんだけれど、未知なものに敏感だったというか、なんというか……。まあ、若かった、ってことなんだろうね。
あ、私が吸っていた煙草がなくなったのは二千三年だってさ。そんなに前だったかぁ……もう二十年前、ってことじゃない?
え? なんて煙草かって?
マイルドセブンのメンソールだよ。アイスブルーじゃなくて。
正式名称が、マイルドセブン・メンソールって言う煙草。マイルドセブンって言ったら、有名なブランドだし、九十年代の後半からメンソール煙草って盛り上がっていたにも関わらず、どうしてかマイナーな存在だったんだよね。
少なくとも、コンビニとか地元の自販機じゃ見たことなかったな。誰もが知っているけれど、存在感がないって言うか……。でも、とにかく好きな煙草だったんだ。そういうのが、合うってことなんだろうね。
何時から吸っていたか? いつからだっけ……。覚えてないな。……ちょっと待って、さっきから覚えてない、しか言ってなくない? でも無理もないか。一番新しくても、二十年前の記憶だもんね。二十年って言ったら、そのとき生まれた人が煙草もお酒も呑める人になるってことだもんね。そりゃあ忘れもするよ。
ところで、君の煙草、ちょっと見せてよ。……これ、何? メビウス? メビウスって何? ちょっとまって、また調べるからさ……。え? マイルドセブンがいつからかメビウスになったんだ……。全然知らなかった。
でも、思い出してみると、確かに自動販売機とかでこのマークの煙草、見たことあるかも。へぇ……そのときから、このデザインにするって考えていたのかもね。
もともとマイルドなセブンスター、でマイルドセブン、だもんね。ブレンドが違うのに、勢いがあるからってセブンスターの名前を使うってのがすごいよね。それも時代、だったのかなぁ……。おかしな話。
え? 一本どうですかって?
うーん、どうしようかな……。
でも、せっかくだし。
……そうだね、久しぶりに吸ってみようかな。二十年ぶりに吸うよ。ライターも久しぶりに持ったよ。そうそう、唇で挟むこの感じ、これが煙草だよねぇ……。何年たっても覚えているものなんだね。
(彼女はカチッとビックのガスライターを押し、唇に挟んだ煙草にそっと火をつけて、目を閉じて低く煙を吐く。膝下に煙が広がって、漂った後に薄くなる。彼女は煙草の箱を彼に返す。)
ああ……これ、メンソール? やっぱり。メンソールの感じが違うけど、煙の奥にある味が似ているっていうか、同じだよ。名前が変わっても、中身は同じなのかね。でも随分と軽いような……五ミリ? へぇ、今は五ミリって結構あるんだ。昔は八の次は六だったような気がするんだけどさ。
でもさ、私はあの時から二十年の時間を過ごしているわけだからさ、あの時感じていたこととは違うはずなんだよね。まだ学生だったけど、今じゃもう社会に出て働いている方が長いわけで。そりゃあ煙草の味だって、感じ方だって変わるよ。そうじゃない?
煙を吐くこの感じも懐かしい。今日は特別だから吸ったけれど、もう煙草を吸うことは二度とないと思う。だって、違うから。名前も違うし、多分だけど、記憶していた味とも違う。そして、これが一番大きいことなんだけれど、私自身が違うから。いろいろとね。
良く言えば、大人になった。悪く言えば、老けた。単純にね。時間の流れは誰にも止められない。……ね、もう一本貰えるかな? ありがとう。悪いね、お金払うよ。今安くないんでしょ? ……え? 五百八十円? そりゃあ、高いわ。そんなに高かったら、皆吸わないよね。
(彼女はハンドバッグから財布を取り出そうとするが、彼がそれを止める。)
本当にいいの? そう、じゃあ遠慮なく貰っておくね。ありがとう。
(彼女は煙草を灰皿で消して、彼に笑顔を見せて出ていく。彼は、そういえばここにきてから一本も吸っていなかったことを思い出して、メビウスのメンソールを箱から取り出して唇にくわえたのだけれど、ライターがないことに気が付いた。さっき、あの女の人に渡したときに返してもらっていなかったことに気が付くが、もう後の祭り。
でも、と彼は思う。一人の女の人の人生を垣間見たような気がして、それの代償としてのビックのライターなら、悪くないのかも、と。
彼はしばらく、唇に煙草をくわえたまま、煙草の煙は一体どこに行くのかを考えていた。暫く後で入ってきたカップルの男が、彼の唇に挟まれた火のついていない煙草に火をつけるまでの間。)
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます