五本目 煙になる、マールボロ・ゴールド・ボックス
なんとなくなんだけど、マールボロをマルボロっていう奴が嫌いだ。
あと赤マルとかマルメラとか金マルって呼ぶの奴も嫌いだ。
煙草の名前さえ略するくらいなら、まともな人生を送れるとは思えないぜ。それとも自分の吸っている銘柄名さえ覚える気がないということなのか? そんなのはただの馬鹿だろう。
だから俺は煙草を買うとき、必ずマールボロ・ライトって言っていた。そうすると十中八九ボックスが出てくる。これは単純におかしいんだよな? だってボックスの正式名称はマールボロ・ライト・ボックスのはずだ。違うか? 違わない。
メーカーのカタログにはそう書いてあるはずだ。マールボロ・ライトったらソフトパックだろ、基本。マールボロって言ったらソフトが基本なんだよ。でも、そんな能書を煙草屋やコンビニのレジで言ったってしょうがない。店員が煙草に詳しいとは限らないし、むしろ詳しいことの方が驚きってなもんだよ。
だから俺は買う時に必ず、マールボロ・ライトのソフトで、って言っていた。時々、ミディアムやフルフレーバー(FK)のソフトも買ったことがある。もちろんその時だってソフトで、って注文していたことは言うまでもない。
でも、俺にはやっぱりライトが一番あっていた。煙草ってのは不思議で、自分と合う銘柄ってのが存在するもんなんだよね。だから、メーカーの都合で生産終了してしまう銘柄を吸っていた人は気の毒としか言いようがない。
時は流れて、マールボロ・ライトは国内のライセンス生産からアメリカ生産になり、いつのまにかヨーロッパ生産になっていて、ついには名前さえマールボロ・ゴールドに変わった。
厳密には、生産国が変われば味も変わるだろうし(船便の影響?)、どれも味が違っているはずなんだけど、吸っているこっち側の違いもあるから、正確なことは言えない。
だけど、煙の中にある味の芯、これはだけは変わっていないはずなんだ(もし根本的に変わってしまった銘柄があるとしたら(あるんだが)それは買わなかった消費者が悪いのか? それともメーカーが?)。
いつもの味。単純にマールボロを軽くしただけじゃない、これ独自の味。とにかく美味いんだ。
数年前、ついにソフトパックの廃止がアナウンスされた。ショックだったし、メーカーにとても腹を立てたけれど、これだって文句を言ったところで仕方がない。だってこの煙草のソフトパックを吸っている人に、今まであったことなんてないに等しいんだからさ。
その時まで販売していたことの方が奇跡みたいなもんだ。これで注文も楽になるな……と思った。一つしかなくなるわけだから。でもよく考えると、そもそも今は番号で呼ぶんだ、名前が変わっても、ソフトが消えても何も関係ない。
それにしても、だ。確かにマールボロ・ライトは金だった。だからって、ゴールドってのはないだろうと思う。煙草に黄金要素なんて何もない。むしろ、黒とかそういうのが似合うだろう。不健康さのイメージ。そもそもが、吸っていたって、良いことなんて何一つないんだから。……って言うのはおそらく一般的な意見。だけど、俺はちょっと違う。なぜか? 単純に煙草が好きだから。正確には、この煙草が好きだから。
喫煙所では、最近肩身の狭い思いをすることが多々ある。理由は加熱式煙草が増えてきたから。この間なんて、ライターで火をつけたのは俺一人という状況で、他の連中は迷惑そうな目で俺を見ていた。
いやいや、あんたらのそれだってきっと有害だよ。煙が少ないだけで。そんな思いを抱えたまま新しい煙草を買って開けたら、なんと中にはそのメーカーが発売している加熱式煙草の広告が入っていた。メーカーでさえ、紙をやめさせてそっちに移行させたいんだ。いくら有名だって、この煙草だって無くなる日も近いだろうな。
「いけね、煙草切らした。お兄さん、申し訳ないけど一本貰えない?」
俺は煙草の箱を振って、相手が一本だけ取れるようにした。ボックスに移行して数年、この仕草にだって慣れたもんだ。ボックス煙草を振って、こうやって一本だけ出すってのもコツがいるんだぜ。誰も褒めてなんてくれねーけどさ。
「ありがとー、最近煙草って高いじゃん? だからこういうことすると嫌がる人多いんだよねー。お兄さんみたいに、サッてくれないんだ。大体、みんな一瞬は躊躇う」
彼女はそう言って笑う。そんなこと言うってことは、いつも貰い煙草やってんだろうな。年は俺と同じくらいだろうか。つまり四十手前くらい。だから、多分この煙草がライトって名前だった時代も知っているんじゃないかな。
「確かに高いですよね。でもだからこそ本当に好きな人しか吸わない世の中になったらいいんじゃないですか?」
彼女は笑う。
「確かにそうなったらいいけど、でも、メーカーはそれを良しとしないんじゃないかな。煙草が好きな奴だけが吸うなんてありえないでしょう。それこそ葉巻の世界になっちゃうよ。そうなったら一本いくらになるんだろう」
「……そうかもしれませんね」
「昔読んだ小説でさぁ、この煙草が出てきたことがあったんだ。ほんの一瞬だったけど、それから気になってはいた煙草だったんだよね。でも、私は買う気にはならなかったんだ。どうしてだろうね? 有名だから? 吸っている人が多かったから? 今日貰えたから、長年の夢が一つ叶ったよ」
「それは良かったです」
僕は外回り用の鞄から未開封の煙草を取り出して彼女に渡した。
「良かったらどうぞ」
「え? お兄さん、もしかしてメーカーの人?」
「いや、違いますよ。ただの紙を作っている会社の営業で、煙草会社とは何の関係もありません。でも、今の話を聞いたらどうしても、もっと吸ってもらいたくなったんです」
彼女はさっきとは違う種類の笑みを浮かべた。
「よくわかんないけど、ありがとう。遠慮なくもらうね」
僕は会釈してその喫煙所を出た。振り返ると、ここは喫煙所と言うより、待ち合わせ場所みたいだな、と思った。歩道の一角を曇りガラスで囲ってさ。でも実際は、誰も何も待っていなくて、ただ煙突みたいに煙を吐いているだけ。奇妙な空間だ。
吸い途中の煙草の本数を数えた。残りは十本。この煙草を吸って何年になるだろう。でも、この十本で、もう煙草をやめようと決めた。さっきの話が原因なのか、理由は俺にもよくわからない。だけど、どうしてか、もうフィルターをくわえたり、ライターのやすりを擦ったり、煙を吐いたりする行為をする気がなくなったんだ。
というか、もともと吸う理由なんて、なかったのかもな。視線を落とすと、くたびれた革靴が俺を慰めているかのようだった。まだ今日は終わっていない。そして、俺も、多分。
「まだ行けるよな」
俺は自分のくたびれた革靴に話しかけたけれど、革靴は何も言っては来なかった。靴は煙草とは違うんだ。俺の、煙草をやめるという決心も、すぐに揺らいでしまうような気がした。
だけど、一旦はやめる。たとえそれが三日だとしても。
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