四本目 潰れかけの、ラッキーストライク・FK

 ないものねだり……たとえば、もっと早く生まれていたら……とか、そういうことを考えることっていうのは、あんまりない。


 だって、俺はどうあがいたって自分が今生きている、今の時代しか生きられないんだから。つまり、そんな仮定自体が無駄だってことを言いたいんだ。


 どれくらい無駄かって言うと、こうやって煙草を吸っている時間や、煙草やライターを買う金、もしくは灰皿の灰を捨てる行為ってくらい無駄だ。つまり俺は煙草にも煙草を取り巻く状況全てにうんざりしている。うんざりしきっていると言っても過言ではない。


 だけど、それでも懲りずに今日も俺は煙草を吸うし、買うし、なんなら灰皿の吸い殻だって捨てる。律儀な男なのさ。使い方があっているのかどうかは知らんが。


「ラッキーストライクのソフトを一つ」


「ラッキー、ストライク……何番ですか?」


 こういう時、目立つしわかりやすいパッケージのこの煙草はありがたい。赤い丸の煙草はラッキーストライクのFKとボックスとライトボックスしかないし、今はもうソフトパックは俺の吸っているFKしかないから間違えようがないってわけだ。


「うーんと……百十二番かな」


「こちらでよろしいですか」


 店員も探しやすいと思いたい。そうじゃなきゃ、なんだかこっちが余計に迷惑をかけている気がしてしまう。


「うん、そうそう。どうも」


 間違いない。赤い丸、白のバックによくわからんラインが入っていて、青い封緘紙。そして余計なお世話の警告文までがワンセット。


「六百円です」


 俺は財布から五百円玉と百円玉を取り出す。もし、二十年前の人がタイムマシンで今の時代に来て煙草を買ったら驚くだろうな。価格は倍以上になっているし、パッケージにもごちゃごちゃとわけわからんことが書いてある。せっかくのパッケージが台無しだろう。


 物は試しで、色んな店でこれを買ってみたところ、驚いたことに書いてある文が全部違っていた。こんなところにまで金をかけているわけだ。世の中が何をしたいのかよくわからん。喫煙者に煙草をやめさせたいのであれば、もっとシンプルな文で良いはずだ。それこそ、この煙草の名みたいに。


 大当たりを狙う人生、悪くないだろう?



 喫煙可の居酒屋のカウンターで友人と飲んでいたところ、一つ空席をあけた隣の客が俺たちを見て「申し訳ありませんが、煙草、控えていただけませんか?」と言う。俺は会釈だけして、半分吸った煙草を急いで消した。


 別にそんなに吸いたくて吸っていたわけでもないってのがその理由で、そもそも煙草だって嗜好品なんだから酒やコーヒーと一緒で、呑む理由がないと言えば、そんなものはない。しかし、友人はそんな俺の態度が気に入らなかったらしい。帰り道、酔った友人が俺に絡んできた。


「お前なぁ。なんであの時煙草消したんだよ」


「なんでって……。そんなに吸いたかったわけでもないからさ」


「じゃあなんで煙草なんて吸ってんだよ?」


「それそこなんで、だよ。吸いたい時だってあるんだよ。吸いたくない時と同じくらいにね」


「じゃあなんで知らない人間に言われたくらいで消すんだよ? そもそもあの店は喫煙できるんだぜ?」


 彼の言うことはもっともだが、今は時代が時代なんだ。煙の少ないと言われている加熱式煙草でさえ、吸わない人にとっては結局煙草でしかないのだ。


 彼は中学校の時からの友人で、同じ高校同じ大学と進んだ。つまりは腐れ縁だ。社会人になりたての時、少しの間だけ煙草を吸っていた。たしか、マールボロ・メンソールだったと思う。でも、すぐにやめた。高いから、って。正しい判断だ。


 何が言いたいかと言うと、別に彼はそんなに悪い人間でもない、ってことなんだ。でも、今日の彼はちょっと面倒くさい人間になっているようだった。酒のせいか、社会に出て三年たって、慣れて、でも疲れは溜まっているからなのか。


 俺は彼じゃないから、もちろん正確なところは分かりようがない。社会が個人に与えるものは人によって程度が違う。それこそ、煙草が人に与える健康影響のように。


「疲れてんのか? まあいいじゃないか。時々、そういう日もあるさ」


「おれには、そういう日しかねーよ。俺にはよ」


 彼の状態は想像以上という感じだった。


「……やさぐれてんな。煙草吸うか?」


「ここは路上喫煙禁止だよ。それにもう二年以上吸ってない。吸いたくもない。臭いし、口の中にずっと煙草の味が残るし、荷物も増えるし葉っぱも溢れるし」


 俺は取り出した、半分に減った煙草をポケットに突っ込んだ。途中、自動販売機で水を買って彼に渡した。


「サンキュ……悪かったな。今日はありがとう」


「そういう日もある」


 そう。そういう日もある。俺は彼にだけじゃなくて、自分自身にもそう言ったんだ。そういう日もある、と。



 彼を駅で見送った後、自分のアパートの最寄り駅まで行く電車に乗った。幸い、電車は空いていて、運良く座ることができた。車窓からビルの明かりを眺めていたら、途中、猛烈に煙草が吸いたくなった。


 だけど今の時代、電車でそんなことができるわけもない。目をつぶって我慢した。そんなことをしていたからだとおもうけれど、昔のことを思い出してしまった。彼と飲んだのも影響しているだろう。彼が世の中に対して疲労している、ということも。



「煙草に警告文なんてない時代があったんだよ」


「へえ、いつ?」


 俺は警告文が表面と裏面に記載されている時代しか知らない。


「もう何年前だろ……そういえば、そのころはラッキーストライクに両切があったんだよね。レギュラーサイズでさ」


 彼女は煙草を語る時、とにかく嬉しそうに喋った。


「両切? なにそれ?」


 彼女は潰れかけたパッケージの封緘紙を破って、よれたラッキーストライクを一本取りだして俺に見せる。


「ほら、煙草ってフィルターがあるでしょ? 今はもうほとんどの銘柄にフィルターがあるわけだけど、それがないってこと」


「ふうん。めっちゃ体に悪そう」


「……かわんないよ、多分。でね、その両切ラッキーって美味しかったんだよ。それこそ、フィルター付きのこれとは比べ物にならないくらいね」


「でも、今はそれ吸ってるんでしょ?」


「……これしかないからね。想い出を引きずって未練がましい。それが私」


「俺は……そんなあなたが好きなんですよ」


「嘘」


 そう言って彼女は笑う。


「……嘘じゃないですよ、嘘つくわけないじゃないですか」


 彼女は嬉しそうに、でも少し寂しそうに笑った。



 気が付いたら寝ていて、降りる駅をいくつか通り過ぎていた。飛び起きて、閉まりかけたドアから慌てて降りる。寝ぼけた頭を冷やす風が、駅のホームを通り抜けていく。


 ポケットから煙草を取り出す。クシャクシャになって半分潰れかけているラッキーストライクのFK。デザインが箱の半分くらいしかない今の時代の煙草。


 いつか、俺の人生にも幸運が訪れるだろうか? しかし、そんなものが来たらあとは下るだけ、になってしまうかもしれない。だとしたら、俺にとっての幸運なんて、この煙草の名だけで十分だ。それ以上の幸運なんて、一体何がある?


 彼女と付き合っていた時の俺は、幸運だったのか? 幸運だけだったのか? わからない。


 プラットフォームに次の電車の到来を告げるアナウンスが流れる。俺は自分の家に帰るために、ここで電車を待つ。誰かの声を思い出しながら。煙草が吸えたら良かったが、それは時代の変化だ。


 煙草の煙の無い、感傷。手のひらにある、ラッキーストライクと俺の、感情。

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