三本目 薄緑と白の、セーラム・ライト・ボックス
ずっと吸っている銘柄なのだけれど、どうしてこの銘柄を選んだのか、というのは良く覚えていなくて、無理に思い出そうとすると、ぼんやりとした、霞がかかったようなシーンだけが思い浮かぶ。
それこそ誰かが吐いた煙が浮かんでいるかのように。確か、大学生の時にコンビニでアルバイトをしている時に、一番名前の語感というか、響きが良かったとか、そんな感じだったと思う。そうでなければお世辞にも目立つとは言い難いこのパッケージの煙草を、敢えて吸うとは思えない。ところで、他の人は一体どういった基準で煙草を選ぶのだろうか? 見た目、名前、それともなに?
この銘柄は、はっきりってあんまり人気はなかった。しかし、買っていく人はなんとなくこだわりが強そう、ってのも気に入った理由のひとつだと思う。もちろん、その人たちが本当にそうか、なんてことは分かりようがないし、私だってそうなの? って聞かれれば、多分、としか答えられないだろう。
そんなことを考えながらベランダに出て煙草に火をつける(最上階だから文句は言われないはずだ、多分)。随分前に買った、スリムタイプのジッポーにセーラム・ライト。この組み合わせ、女っぽくないって言われる。知るか。勝手に、あんたが思うなんとからしさ、を人に押し付けてくれよ。……気が付けは次が最後の一本だ。また買いにいかないと。
朝、決まったコンビニで買う。万引き防止のためなのか、必ず店員の後ろに並んでいる銘柄から選ぶのは大変で、だから空のパッケージを持つようにしているんだけど、今日は昨日最後の一本を吸った後つい捨ててしまったからそれはできない。
「セーラム・ライト一つ……あの、左の緑の箱。……えっと、百十五番」
「これですか?」
そういって若い男の子が持ってきた煙草はクール・マイルド・ボックスだった。まあ銘柄の成り立ちというか、精神的にはとても似ている煙草だけれども。クールも悪くないけれど、私は単純にクールよりセーラムの方が好き、それだけだ。とはいっても、セーラムがなければクールを買う。そんな銘柄。
「これじゃなくて……」
私はまたレジ奥にある銘柄の並んだ棚を見る。
「それの二つ右隣の緑と白の……」
「あ、これですか?」
「それ」
「どうもすみません」
「いえいえ、こちらこそなんだか申し訳ないですね」
たかだか煙草を買うという行為だけで一苦労だ。店員からしたらそりゃ迷惑だろうな。コンビニでも邪険にされる理由もわかる。……いや、この場合関係ないか。
誰もいない会社の喫煙所、朝買った煙草に火をつける。このライター、そういえばどうしたんだっけ。昔付き合っていた男に貰ったんだっけ。誕生日とかそんなんで。違ったかな。自分で買ったんだっけな。
……煙草の味って、厳密には少しずつ変わっていると思うんだ。私たちが同じだと思い込んでいるってだけで。それは私たちが変わっているってことでもあるし、手に入る葉の出来栄えやブレンドだって少しずつ変わっていると思う。去年と全く同じ原料が手に入らなくなることだってあるだろうし、巻いている紙だって、もしかしたら気が付かないだけで製造メーカーが変わっているかもしれない。フィルターだってそうだ。作っている人しかわからない秘密。
もっとも、こんなことまで気にして吸っている人なんていないだろうな。私だってふとそんなこと思っただけで、別に真剣に考えているわけでもない。
「どうも」
「はい、どうも」
人がいない時間を狙っているって訳じゃないけれど、それでもこの場所に誰か来るってのは珍しい。見たことない人、もしかしたら最近入った中途の人かもしれない。そういえば、私ってなんで十年近くもここで働いているんだろう。別に良い会社ってわけでもない。でも、良い会社ってわけでもないっていうことは悪い会社でもない、という意味にもなる。どんなことにも、二つの面があるわけだ。
「何、吸ってんですか?」
こういうのが好きじゃないんだ。別に何吸ってたって良いだろうよ。
「セーラム・ライトだよ」
「おお。僕はクール・マイルドです。ある意味、似ている銘柄ですね」
私が朝コンビニで思ったことを彼は口に出して言った。そのくらいは、彼も自分の吸っている銘柄については知っているらしい。時々、自分の銘柄名さえわかっていない連中もいるからね。
彼はコルクチップのフィルターを唇にくわえて器用に微笑んだ。どうして器用かって思ったかというと、結構動いたにも関わらず彼は灰を一切落としていなかったから。しかし、こっからどう話を進めたらいいものやら。彼の顔を見ると、私より少し若いくらいだと思う。
「失礼ですけど、どの課?」
「営業です。営業二課です。昨日からなんですよ」
「そうなんですね、よろしくお願いします。私は品管なんです」
「品管」
「そうです」
「どこにあるんでしたっけ?」
「一階の奥……わかる?」
「あー……わかんないっす」
「じゃあ、今度見学がてら見に来てよ」
「はい……お、そろそろ時間だ。じゃあ先に行きますね」
「さようなら」
彼は出ていく。私が思うよりずっとずっと、火をつける煙草は減っていて、加熱式煙草が増えている。私の会社、加熱式煙草以外の喫煙できる場所ってここしかない。でも、人がこない。それこそ、煙のように消えてしまったんだ。
そのうち、この銘柄だって無くなってしまうかもしれない。私は今まで……三十になるまで、いったい何を無くしてきたんだろう? 自分の机に戻りながら、そんなことがふと、頭に浮かんだ。
帰り、会社出る前に喫煙所に行ったら朝の男の子がいた。こういう偶然ってよくあるとも言えるし、全くないとも言える。どんなことだって、そういう一つ一つの積み重ね。煙草を吸い続けると高まっていく病気のリスクと一緒。
「こんにちは、また会いましたね」
私は会釈する。なんだか疲れすぎてて、会話をする気になれない。バッグから煙草とジッポーを取り出して火をつける。
「……多分、火をつける煙草を吸っている人が、全くいないんじゃないのかな、うちの会社」
それは彼に向かって言ったわけではなかったのかもしれないが、彼は律儀に拾ってくれた。
「それはあるかもしれませんね。僕も今日一日、ほとんど見たことなかったですよ」
お互いの吐いた煙が換気扇に吸い込まれていく。
「どんなことでも、良いことってあると思うんです」
彼は急に妙なことを言い出した。私はただ黙ってそれを聞く。
「なんて言うのかな……例えばどんな日だって、寝る前にその日の良かったことを一つでも思い浮かべられたら、救われるというか」
「はあ?」
「だから……その……無駄なことって、ないはずなんですよ……多分」
「もしかして、励ましてくれてます?」
「えっと……はい」
私は思わず吹き出してしまった。
「別に落ち込んでませんよ、ただ疲れただけ。よくある会社の日常に疲れただけですよ。だから大丈夫です、ありがとう」
「そうなんですか? てっきりそうなのかと思ってましたよ……」
ひとしきり笑った後、私は席を立った。
「私はもう帰りますね、お疲れ様です」
「お疲れ様です……また明日」
「はい」
私は扉を閉めた。その音、ジッポーを閉めたときのような音に聞こえた。口の中に残っている少しのメンソールと微かな苦みを持ちながら、私は家に向かう。こうやって、私の日常は続いていくだろう。
だけど、煙草はいつかやめる日が来る気がする。それも、そう遠くないうちに。この銘柄がなくなるのと、私が煙草をやめるのは、どっちが早いかな。
そんな、意味のない想像をしながら、彼が言った、今日一日で起きた良いことを考えながら、私は帰り道を急ぐ。
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