二本目 木漏れ日と、(ロング)ピース(20)
カシャカシャ……と動くたびに鳴っているマッチを、長年使っている安物トートバッグから取り出す。同じバッグに入っている煙草の箱を開けて丁寧に一本だけ抜いて、そっと唇に挟む。
マッチの火をつけて、二秒間だけ待つ。火が真ん中ちょい前あたりになったら、唇で待ち構えている煙草に火をつける。火がついたらマッチを吹き消して、一回だけ煙草を吸ってすぐに吐く。周りに、甘いバニラの香りが漂う。
別にこいつの甘さは着香された甘さって訳ではないんだ。だけど、こいつのセールスポイントはいつも『バニラの誇り高き香り』、どう考えても糞食らえだ。そんなものは本当に糞なんだ。大事なのは味だ。紅茶のような、クールスモーキングをしなければ決して味わえない、ヴァージニア葉由来の上品な甘さ。
「お! 渋いの吸っているねぇ……」
「……どうも」
この煙草を吸っていると、時々年配者からこうやって声を掛けられる。他の煙草を買ったことがないから、その声をかけられる割合が多いのか少ないのか判断はできないけれど、多分、多い方になるんだろうなって気がする。だって、同じ煙草を吸っている同年代に会ったことがないから。コンビニにも割と置いてあるし、別にマイナーな銘柄って訳でもないと思うんだけど、タールの重さ故に珍しいに分類されるんだろうな。
「昔ね、付き合っていた男がいたんだ」
驚いた。さっきの話には続きがあって、しかもそれはどうやら僕に向かって話しかけているらしい。周りを盗み見ると、この喫煙室には僕と、目の前にいる年配の女の人しかいない。喫煙室での見知らぬ人との会話は、大体二言三言で終わるものなんだ。それこそ、ライターの貸し借り、とかね。
「はあ」
「その人がピースが好きでねぇ……兄ちゃんの吸っているロングじゃなくて、ショートの方ね。ちっちゃい箱のさ」
「両切のですね。紺と金の箱の」
「そそ。でもね、そいつは箱じゃなくて缶にこだわっていたよ。缶の方が美味いんだ、って言って聞かなくてね。中身は一緒なのにね、小さいこだわりばっかり持っている男だったねぇ……。どうしようもない馬鹿だったね。本物の馬鹿さ」
僕は話を聞いている間ただ持っているだけで長くなってしまった灰をそっと落とす。煙草を美味く吸うコツは、矢鱈と灰を落とさないことなんだ。そしてクールスモーキングを心掛ける。でも、こんなことさえできない連中が大勢いる。そんな連中は煙草を吸う資格がない。
「馬鹿だったって言う割には、嬉しそうですね」
彼女は短くなった煙草を灰皿で丁寧に消して、ハンドバッグからショート・ホープを取り出して火をつけた。もちろん青だ。赤や銀や緑じゃなく、オリジナルの青。青と紺の間のような色。藍色か。
「そりゃあね。好きだったからね。気の短い大工でね、しょっちゅう怒鳴りあいになって隣の家から苦情が来たもんさ。兄ちゃんは何歳?」
「二十一です」
「あたしにも、二十一んときがあったんだよ」
「……知ってます」
「そりゃ、結構だよ」
僕たちはある意味、同じ船にたまたま乗り合わせただけの関係で、彼女は僕の祖母と言っても差し支えないような年齢に見える。でも、たまにはこんな偶然も悪くない。何があるってわけじゃないんだけど、なんとなく。繋がり、とでも言うか。彼女は短くなった煙草を消して、僕を見て微笑んでから出ていく。
「じゃあね、兄ちゃんの人生も、良いことが多いと良いね」
「ありがとうございます」
彼女は良いことの方が多いと良い、と言った。さりげない言葉だけれど、彼女の人生観が含まれているような気がした。僕はしばらく一人でピースの味を楽しんでからそこを出る。大学へ行くために家を出て、でも途中で行く気をなくしてぶらぶらと街を歩いて、目に付いた喫煙所に入ったというわけなんだけど、やっぱり大学に行くか、という気になった。
それはたぶん、僕よりずっと年上の人と、思わず話をしてしまったからだと思う。シンプルに言うと、僕はある意味、誰かのそういう行動に救われたかったのかもしれない。カシャカシャと鳴るマッチの入ったバッグを肩に下げて、電車に乗って大学へと向かう。
平日の昼下がり、車窓からは陽の光が入っていて、シートと床に奇妙なコントラストを描いている。時々、立っている高いビルがそれを遮って、通り過ぎるとまた明るくなる。そんな光景、きっと、人生ってこういうものなんだろうなって思ってしまった。煙草の煙が、きっと似合うような風景だけれど、こんなところで吸うわけには行かない。……今日の僕は多分、どうかしているんだろう。
大学の門を超えて中庭に行く。今では信じられないことだけれど、当時は中庭の隅に屋根のついた喫煙所があった。僕はあまり大学で煙草を吸う気はなかった。理由は二つあって、一つは僕の銘柄についてあーだこーだ言われるってのが面倒だったってのと、二つ目はなんだか格好つけているみたいに感じていたからだ。でも、今日は珍しく行ってもいい気になった。
もうすぐ冬だというのに、陽が当たるからか中庭には結構人がいた。中央位にあるベンチには仲の良さそうなカップルが座っていた。付き合い始めの初々しさがそんな二人から見て取れた。僕にはきっと、縁のない話だろう。短くなった煙草を灰皿に入れて、授業を受けるためにそこを後にした。振り返ると、僕の吐いた煙が日差しと混ざって、木の陰に溶けて消えていった。
これはもう二十年くらい前の話だ。
僕はもう立派な中年で、今はもうあまり煙草を吸わないようにしている。もちろん、健康のためだ。だったらさっさとやめればいいって思うだろう? ところがこれがまた難しいんだ。人生には、理由もなく、どうしようもなく惹かれるものってのが存在する。
僕にとってはきっと、この煙草こそががそうだったんだろう。決して、煙草の煙に含まれているニコチンのせいではない。僕はいつものようにマッチをゆっくりと擦って、最初の一口をゆっくりと吸う。一箱開けるまで時間がかかるから、最後の方はもう、香りが飛んでいる。
だけど、そんなことはどうでもいいことなんだ。昔から、僕はこの煙草の香りじゃなくて、味が好きだったんだから。それに、時間がたった方が良いこともある。
……多分。
もし、今の僕がこのロング・ピースを手にしているところを誰かが見ても、もう『渋い』なんて思わないだろう。
人生って言うのは、きっと、そういうものなんだ。珍しく、二本目を吸いたくなった。マッチを擦る。辺りが少しだけ明るくなる。そして消える。残るのは煙だけ。
人生って言うのは、そういうものなんだ。明るい時間は、短く、残るものは煙とともに消えていく。
……多分。
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