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関ケ原の合戦は、当日実際に参加した島津家臣の覚え書き(ネットで検索すると出てきます)が、一番真実に近いと思います。これによると、東軍に対して布陣していたのは、大谷、石田、小西、宇喜多、島津、亀井の5部隊で、全部合計しても3万弱しかいなかったみたいですね。吉川を含む南宮山の毛利勢は前日(9月14日)に家康と和議を結び、停戦しています。開戦の口火を切った大谷勢は家康の本隊と小早川秀秋の挟撃によって最初に壊滅、続いて黒田、福島、細川、加藤らの東軍先方が残りの西軍に襲い掛かり、一瞬で西軍は崩れたというのが、実戦に参加した島津家臣の報告です。小早川は日和見などしておらず、初めから東軍として戦っており、当日裏切った訳ではありません。亀井は実際に当日裏切っていますが、戦後家康に加増して貰っています。朽木、小川、脇坂、赤座の4部隊が関ケ原に参加したという記録は一次資料になく、参加はしていなかった様です。全然絵にならない一方的な戦いだったのは、伊達政宗宛に送られた徳川の戦況報告にもあり、大河ドラマとかで見られる戦いとは全く様相が異なったみたいです。
作者からの返信
家康絡みだと姉川もかなり脚色されているようですし、後世に手を加えた部分もあるんでしょうね。そもそも従軍記者もいない時代ですし、第三者的に「こういう推移になりました」と見るのも難しい部分があるかもしれません。
ただ、宇喜多が頑張るしかなかったというあたりは共通しているので、それこそナレーションだけで「負けました」というあっさりした展開だったかもしれませんね。
毛利はかなり削減くらっているので、話をつけた吉川広家が押しとどめていただけという可能性もありそうですが……
無能な味方オンパレード!
作者からの返信
右も左もダメ指揮官です(笑)
無理難題をどう捌くか!?頑張れテンセー!
作者からの返信
かなりの無理難題ですが、何とかなるのでしょうか……(笑)