甲陽軍鑑の中にも、この話の通り長篠を占拠して織田の撤退を待ち、そののちこの周辺で苅田や放火、狼藉を繰り返せば、この辺りの国人衆は徳川を見限る…そうすれば徳川は自然に滅びるだろう…という意見が出たとあります。信玄なら間違いなくこの手を取るでしょうね。織田の本軍と正面衝突すれば、仮に勝ったとしても甚大な損害を被ります。この当時の武田軍は、それを取り戻す程の国力はありません。信玄が決戦に非常に慎重だったのは、大損害は絶対に被ってはならないという考えがあったと思います。
作者からの返信
当初は騎兵と歩兵の混成軍で信長の陣地も、と考えたのですが、それやると武田じゃなくなるのでここは武田らしく騎馬重視で徳川のみを狙うことになりました。
実際、家康が信長の出馬を乞うたときも、「これ以上来ないなら武田側につくぞ」というニュアンスもあったといいますし、家康の立場は非常に辛かったのではないかと思います。
信玄も若い頃は戸石城やら第四次川中島(多少脚色ありでしょうが)で被害を被って苦労したことがありますから、勝頼と違って立て直す時間があってその経験をもとに老成できたのが違いとしてあったのかもしれませんね。
こんにちは、川野様。御作を読みました。
チエさんのやり方は、前情報を知っているからできることではありますが……。
確かに防衛陣地外で戦えば、そうそう負けませんよね。この時代、火縄銃の射程は五〇メートル程度だし。
ダイナミックなアプローチが興味深く面白かったです。
作者からの返信
はい。ここは情報をもっている強みを生かしてうまく立ち回りました。
射程外のあたりをうろつくだけにとどめて、戦術的な結果は徳川と長篠城から取るという方法で勝利をものにしています。