第37話 農場とスローライフ

 俺の名前は奥洲天成。

 俺は生き馬の目を抜くような、現代のせわしない社会が嫌になっていた。

 多大なストレスで若年性の癌にかかり、呆気なく死んでしまった俺は、神様に対して要望を出した。

「俺は人間社会で生きるのは嫌だ。究極のスローライフを送りたい」

『究極のスローライフだと?』

「そうだ。俺はできれば牛になりたい」

 牛はのんびり草を食むだけで生きていける。動きももっさりしているから忙しなく動く必要もない。

『まあ、いいだろう』

 神様の承諾を取り、俺は中世スペインに牛として転生した。


 だが、それは予想以上に苦難の道のりだった。


 最初は良かった。

 俺はただ草を食べ、寝ているだけで良かった。時々、鋤を引かされることがあったが、ゆっくり引いていればいいので楽だった。

 反芻するから、食事の時間がやたら長いという欠点はあるが、パラダイスのような楽な毎日だ。食って寝て、食って寝る。晴れた日は日向ぼっこをし、雨が降れば屋敷の中で横になる。

 まさにパラダイス!


 そんな平穏な日は、奴の襲来とともに終わった。


「いや~、あれは本当によく働くね」

 農場主の視線の先には鋤を引いている馬の姿があった。

 そう。馬は俺達牛よりも機敏である。力もそれほど変わりがないから、俺はあっという間に戦力外となってしまった。

「あいつはどうする?」

「闘牛にでも出すか?」


 闘牛!?

 大変なことになってしまった。

 この時代、何かの祭りの度に闘牛が行われていた。「パンと見世物」の見世物の役割をはたしていたというわけだな。

 だから、しょっちゅう闘牛はあるし、闘牛をやる度に牛は殺されることになる。現代は「残酷だ」ということで廃止論も強い闘牛だが、この時代は動物の苦しみは人間の楽しみだ、そんなことが期待できるはずもない。


 くそっ。メスなら牛乳という最後の切り札があるが、俺はオスだからそれは期待できない。

 このままでは闘牛待ったなし。赤い旗に突っ込むことになってしまう。


 何とかしなければいけないが、いくら頑張っても牛は牛である。馬のように早く動けるようにはならない。

 絶体絶命?


「だけど、アンタ、馬には飼い葉が必要だよ。馬ばかりにしたら、冬場の食費がバカにならないよ」

 おぉ、農場主の妻が助言してくれた。

 そう、俺達牛は、農場の雑草などを食って生活している。しかし、馬は飼い葉が必要で、食費はかかる。一年中農作業ができるわけではないから、休耕期間の馬は無駄飯食いとなるわけだ。

「それもそうか。のんびりしているが、仕事はするわけだからな」

 ホッ。

 どうやら、闘牛行きは免れたようだ。

 ただ、休耕がなかったり、馬が更に活躍できるような道具が誕生しようものなら、また闘牛行きの話が復活するかもしれない。


 翌日以降、俺はまた鋤を引く。

 のんびり……だと今後、馬が怖いので、以前よりはしっかりと頑張って引いている。



"神様の一言"

 家畜の代表例とされる牛と馬。

 19世紀に至るまで、「どっちが有用か?」という議論があったようで、決着はつかなかったようだ。絵画などでも、牛と馬が併用して使われているケースが多いようで、それぞれの良さを生かそうと考えられたのだろう。


 ちなみに馬は競馬、牛は闘牛と、今に至るスポーツとして残っていることも、彼らがそれだけ人間に近い距離にいたことの証なのかもしれないな。

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