§ Ten years After /学生の記憶
初めて人と手を繋いだ時の空を浮いたような感覚が、忘れられない。
四人掛けテーブルの斜め前の席で窓を向いている顔を、小説を開いたままそっと盗み見る。横顔のライン、前髪から覗く眉の形、目や鼻、口元、全部絵で描いたように整っている。それに目を奪われることは分かっている。だけど――
「何だよ」
ジロリと睨む眼は冷たい青色で、肌も少し色が白い。違う。分かっている。
「別に」
たまたま目が合っただけ、と言うように再び頁に視線を落とした。
初めて手を繋いでくれた、記憶の限りは親ともそんなことはない――あの人が差し伸べてくれた手を想い出す。というよりも、忘れることができない。その姿を写し取った顔を否応なく毎日目にしてしまうから。本物と少しだけ違う、その否定とそう思ってはいけない否定が擦れ合って心をざらざらとささくれ立たせる。
高等部の行事で、テーマパークに来た。茜と私。早川達也と霧崎夭輔。そのペアでいた筈なのに、あろうことか茜はエリア別のチュロスを制覇するとか何とか言って早川達也を駆り出してどこかへ行ってしまったのだ。私達をこのカフェに置き残して。
行事の一環として来ただけで特にアトラクションに興味もなくそのまま本を読んで時間を潰すことにした。それだけなら未だいいが、仲良くもないクラスメイトと同じテーブルに残されるのは苦痛に近かった。彼もきっとそうだろうに、どうしてさっさと席を立たないのだろう。
「……何読んでるんだ?」
関心もない会話で間を持たせるようなタイプじゃないくせに。
無視をしているとまた窓の外に目を向けた。動く気はないらしい。多分意地の張り合いで、お互い相手が動けばいいと思っているのだろう。
「あのさ、」と彼が口を開く。直接会話したことも二人だけになったことも殆ど無い。というより意図的に避けていたかもしれない。
「親父と……どういう関係?」
――訊かれたくないことを、聞きたくないから。
「別に」とまた短く言葉を切った後、別になんかじゃない、と別の自分が叫ぶので言い直す。
「家同士の交流があって、何度かお会いしたことがあるの。あなたが帰国する前に」
ふーん、と彼は納得したのかしていないのか分からない鼻音で返した。
全部を話す必要はない。多分彼は私達が昔許嫁になる筈だったことも知らない。それは知る必要がないと、
彼は頬杖を突きながらこちらを見ていた。その視線が小説の裏表紙に向いていて、あらすじの文字を追う前に閉じてソファに置いた。ミステリーの文芸書だが、男女関係が軸になっていた。
「あいつはさ……あまり近づかない方がいい」
「どういう意味?」
反射的に睨んで返していた。
「真次さんは凄く尊敬できる人よ。優しくて、何でも知っていて、何でも出来て……凄く素敵」
「そう見えるなら、見えてない」
小さくため息を吐くのに気が立った。
「あなたにはどう見えるの?」
「利用されてる」
じっと私を見つめる。
「何で……そんなこと言うの?」
――約束したんだから。
私から、言ったの。利用されてなんかじゃない。喜んでもらえると思ったから――
本を閉まって、鞄を掴んで、席を立つ。日下、と呼び止められて手首に触れた。振り返って目が合うと怯んだように固まって、そのまま振り払って早足で化粧室に向かった。
落ち着いてから鏡の中の自分を見る。大丈夫。いつもの私だ。瞳だって滲んでいない。
普通に横切って、そのままお店を出よう。そう思って出ると、元の席からパッと顔を輝かせる友人がいた。幾つも包みを抱えている。全種類二個ずつ集めて来たよ! 一緒に食べよう! と大声で手を振って。日常に戻ってきたようにほっとして、呆れながら向かった。彼女がいれば大丈夫だ。あの肺が乾くようなヒリヒリした空気になることはない。
「日下、」と退園する時後ろから呼びかけられた。無視をして歩いても追いつかれる。
「親父が送っていくって……俺は帰るから」
言葉の意味が分かったのは、テーマパークの外で待つ真次さんの姿を見つけた時だ。
学校行事としての解散後については、園に再入場する生徒もいれば学校までのバスに乗る人もおり、でも大抵は親や運転手の迎えの車が来ていた。茜は家が近所らしい早川家の車に乗り合わせて行くらしい。霧崎夭輔とは確かに方面は同じではあるけれど、と戸惑うもなにも肝心の彼の姿がない。帰るって――まさか……
「ごめんなさい。先程まで見かけたんですけど、」
「ああ、連絡があったよ。電車で帰るようだ」
真次さんは事もなげに言う。不機嫌さの欠片もない。怒っても当然のことなのに。
「君の家にも了解を得たから、送らせて貰えるかな?」
「は……――はい」
ありがとうございます、と上ずって答えた。ほんの一瞬だけ、再入園する生徒を思い浮かべてしまった。もし少しの間でも一緒に歩けたら――そんな厚かましい思いを抱いてしまったことが恥ずかしく、顔が火照って少し俯いた。
助手席に乗って、ドライブする。これだけでも思いがけない幸運だ。小一時間は、二人きり――。スピードは運転手よりも幾分速い。ほんのり潮の香りを乗せた風が頬を撫でて気持ちいい。空色の車体で、幌を上げオープンカーにしてくれた。目立つ筈なのに、真次さんが運転すると様になってまるでどこか外国にいるみたいだった。
学校のことを話した。自分のことじゃなくて、彼のこと。きっと彼は家では話さないだろうから、真次さんは知りたいはずだ。やっぱり楽しげに耳を傾けてくれた。彼との不和は出てしまわないよう気をつけながら話した。
「いい友人に恵まれて良かった」
感謝の目を向けられて、曖昧に微笑む。
その日の嫌なことを全部忘れられるくらい、楽しくて幸せな時間だった。
隣り合う座席で、手を伸ばせば触れられそう。体の重しを全て取り払って無重力にしてくれる、暖かくて大きな魔法のような手。
でも、もう重ねられることは二度とない。あれは小学生だったから許された最後のお願いだ。
流石に高校生にもなって困らせてはいけない分別はある。例え三年しか経っていなくても。
驚く程色褪せない気持ちとは裏腹に、距離はどんどん遠くなっていく。
今だって、もう彼――息子の友人という接点しかない。
ちょっと予定より早いからお母様も未だ帰っていないかも、と嘘を吐いてみた。本当はいつもいないんだけど。そしたらチョコレートアイス店に寄ってくれて、公園で一緒にコーンアイスを食べた。新緑に夕日が差して蜂蜜色に輝いて、冷たさに痺れる舌はとびきり甘くて、絵本の中にいるみたいに誰の視線も気にならなくて、ずっとずっと閉じ込めて時間が止まればいいのにと願っていた。
「どうして昨日は勝手に帰ったの?」
翌日前の席にいる背中に向かって詰る。父親が迎えに来てくれたような家庭はごく稀だ。当然だ。真次さんだって忙しい中わざわざ時間を作って来てくれたんだ。きっと彼と過ごす為に。どうしてそんなに勝手な事ができるのか分からない。彼は分かっていないんだ。何もしなくても親が自分に関心を持ってくれることが当然じゃないことが。
「……言った」彼は頬杖をついたまま振り返らず答える。
「そういうことじゃ、ないでしょ」
縦列の喧嘩。壁に玉打ちするように意味の無い。
「霧崎君て、本当勝手よね」
ため息を吐いて終わる。
――でも、彼がいたらきっと助手席には座れなかったから、それだけにしてあげた。
ねぇねぇ葉那ちゃん、昨日二人で待っていた間は霧崎君となんかあった? とワクワクした顔で聞いてくる茜には厳しい視線を送った。
*
「十年、経つのね……」
制服を着た女子高校生たちが六人も連れ立って歩いている。頭には揃って同じ、恐らくクマの、ふわふわの耳のカチューシャを付けて。学生の時に行事で来て以来だった。日本のディズニーランドに来るのは。あの時もそうはしゃいだ記憶はないけど……殆どを本を読んで過ごしたんだっけ。あの時も彼がいたと思うと、奇妙な気持ちだ。
「葉那、」
こんな笑顔で駆け寄ってくるようなタイプじゃなかったから……殆ど別人だ。
「チュロス?」
これ、と差し出されたのは甘い砂糖の塗された細長い揚げ菓子だ。
「なんかいっぱい食べてただろ」
「あれは正直困ってたわ」
茜に「全種類」を押し渡されて、一緒に食べようという名目で早川達也にその殆どを手伝ってもらった。早川君も察し良く幼馴染の暴挙の尻を拭うように平らげてくれたおかげで美味しいと友人と笑い合いながら食べられた。彼と言えば我関せずとそれを眺めているだけだったが、どうやら好きで食べていたと思っていたらしい。
「半分ね」
と割って渡すと、素直にサクリと頬張った。あっという間に食べてしまうと、うずうずして「あと、これ」と言って私の頭に何か被せた。
え、と触って確かめると、これはどうやらミニーマウスの耳のカチューシャだ。リボンが付いている。彼は頬に触れてまじまじと見る。
「凄く可愛い。このテーマパークで、いやこれを付けた史上で一番似合ってる」
「恥ずかしいわ……大人が付けるものじゃないでしょ」
「いや、皆付けてるって――ダメ?」
外そうとすると凄く惜しそうな顔をする。
「じゃあ一枚だけ写真撮らせて」
「嫌よ――じゃあ、貴方も付けて」
あまりに残念そうにするので可哀想になって、折角買ってもらったのを無下にするのも悪い気がして付け加えた。同じ状態なら気持ちも分かってもらえるだろう。
「いいな、それ」
しかし彼は案外に乗り気になって、もう一つ、ミッキーマウスの耳飾りを買ってきて自分につけた。ほら、とそのまま顔を寄せて自撮りしようとする。
――嘘でしょ。
こんな、高校生みたいな……しかもその当時は絶対に何があっても拒否しただろうに。
カシャ
軽快なシャッターの電子音が鳴る。笑顔の彼と、恥ずかしそうに目を逸らしている自分。
こんなのが写真に残るの……?
「ありがとう」
嬉しそうに彼は携帯電話をしまうと、手を握って歩き出す。
「あ……」
「もう譲らないから」
少し強く握り込むその手は空を浮く感じではないけれど、確かに地面を踏み締めて歩いている安心感がある。十年後もきっとこの距離は変わらない。不器用だったけど優しいのも変わっていない。きっとあの時は二人にしてくれたんだ。ありがとう、とやっとお礼が言えた。
*おまけ*
チュロスの最後の欠片を口に押し込む時、指に少しついてしまった粉砂糖までを軽く唇に含み取った。すると口元にもう一つ手が伸びてくる。
「舐めて」
「ん」
その指先を唇に挟んでちゅ、と吸いつくと粒状の甘みがスパイスの香りと共に舌で溶ける。しかしぴくっと振れて瞬く間にそれは口を離れた。顔を上げるとちょっと面食らった様子の彼がいる。目が合うと気恥ずかしげに逸らした。
「いや、悪い――本当に舐めると思わなくて」
「え……」絶句した後、自分がしでかした事に気が付いてあああと呻いて顔を覆いしゃがみ込んだ。
「最低……」
「いや、誰も見てないからさ……大丈夫」
慰めになんかならない。私は一体何を。彼が悪い。彼がこんな場所で――
「しゃがんでる方が目立つぜ」
そう耳打ちするから意を決して立ち上がった。忘れよう。
確かに何事もなかったように人々は思い思いに楽しそうに行き交っている。周りになんか気を留めていない。この耳のカチューシャを付けている限りテーマパークと一体化してカメレオンのように人に映らない気がした。
「別に――大したことじゃないわ。そうでしょう?」
「ああ」彼は神妙に頷く。「けど続きはホテルに戻ってからにしよ――ぐ」
誰も見ていないと思うのでドンと
§ Ten years After 了
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