§ Two Fireflies /霧崎家の温泉旅行

 浴衣の前身頃が崩れて胸板が露わになる。間近に迫ったそれを押し退けようとするがびくともしない。声をひそめて睨み付ける。


「ちょっと、やめてよ――」

「何で」


 と返ってきた声は平坦だ。暗がりの中その表情を窺い知ることができない。

 背には布団、湯に浸かって芯から温まった体に人の体温で、春の夜でも爪先まで熱がこもって何だか頭までくらくらする。

 そうだ、晩酌をしていたんだ。張り出されたテラスに籠編みされたソファが置かれ、ひらけた湖と遠くには細長い月、冷酒を嗜む姿はとても優美だった。その明瞭な記憶との落差に思わず口をついて出る。


「どうして貴方は、、、そうなの」


 和室に布団は二つ並べられていた筈なのに、目が覚めると――というか、組み敷かれて目が覚めたのだろう。


「葉那がそう、、だから」


 首筋に唇が落とされる。折り合わされた襟の間を広げるように手が入り込む。ひやりと冷たいのは自分の体温が高いからだろうか。火照った体に酔い覚ましの水を飲むようにそれは感覚的には心地よい。それに覆い被さっているのに全く圧は掛けられず滑るように肌を撫でる。


 ――確かにちょっと、放っていたかもしれない……


 

 婚約者とその両親と一緒に温泉旅館に来たのは、彼の両親――というかお母様ロゼットさんに、熱心に誘われてのことだった。婚約したてのゴールデンウィークに予定が空白のままだった私達に気を遣ってくれたのかもしれない。

 ロゼットさんはもうすっかり家族同然に接してくれていた。明確な返事を返す間も無く、三家族は宿泊できる離れを予約し期待に満ちた目で見つめられれば、明確な断り文句は思い付かなかった。


 尤も、婚約者夭輔はそれでもその場ですげなく断りかけたのだが、ロゼットさんの瞳が潤み涙が溢れる前に咄嗟にそれを制してにっこりと了承した。外面のいい自分の癖かもしれない。

 だけど、実際、彼の態度を思うとロゼットさんの肩を持ちたくもなる。夫は海外への単身赴任で留守がちで、溺愛する一人息子も中高男子の反抗期に片足を突っ込んだようなまま留学してしまい、一人寂しい時間は多かっただろう。

 「苦労もしてきた」なんて彼は理解を示すような事を言っていたけど、それが態度に現れているとは思えない。ようやく帰国したかと思えば婚約者を連れて結婚だなんて、鬼でもなければ心中慮って然るべきだろう。だから決して、義父になる人真次さんへの憧れとかは一切関係ない。

  


 お湯を上がって部屋へ戻ると、シンと誰の気配も無かった。


 ――家族水いらずでどこかへ出たのかしら


 ロゼットさんとは大浴場へ一緒に行ったがのぼせやすい体質らしくすぐに上がって、自分は比較的長湯なのでゆっくり浸かっていた。真次さんは部屋の露天風呂で済ませるようだったので、夭輔も大浴場へ行った筈だ。特に示し合わせた訳では無かったので、部屋でくつろいでいれば皆戻ってくるだろう。

 元々、自分の役割は夭輔をこの「家族旅行」に連れてくる為のようなものだ。できれば親子三人で過ごす時間を自然に取りたいというのもあって、自分が一番遅いだろうと思いつつ多種の湯船を堪能した。

 でも少しのぼせてしまったかも……

 夜風に当たろうとテラスに出ると、そこに真次さんがくつろいでいてあ、と思わず声を上げてしまった。

 

「やぁ」と気さくに真次さんは驚くことなく少し杯を上げた。グラスは透明に揺れ、そのまま口付けられる。


「ロゼットと夭輔は蛍を見に行ったよ。ここの名物なんだが、時期が少し早いので君にがっかりさせないよう一番良いスポットを探してくるそうだ」

「あら、そうなんですか」くす、と少し笑ってしまった。「私もここで待っていていいですか」

「勿論」真次さんは伏せてあったグラスを取り出し目で尋ねるので「頂きます」と返事をする。


 のやり取りがちょっと目に浮かんで口元が緩んでしまった。きっとロゼットさんが観に行きたがって、夭輔は面倒そうにしてせめて私を待つと言って、真次さんが先のような口実で二人を送り出したのだろう。誰の機嫌も損ねないにはそうするのが一番いいと知っているから――


「真次さんも」


 空いたグラスに注ぎ返す。草を掻き分け蛍達の眩い社交場を覗き見に行くより、迷い込んだ一匹二匹の灯す淡い線を晩酌をしながら見送る方が性に合うだろう。


「いいや、君には怒られると思うが今日は息子に譲ったんだ。妻が喜ぶ顔見たさに」

  

 確かに、ロゼットさんははしゃいだだろう。いつも取り合ってくれない息子と、子供の頃に戻ったように連れ添って歩いて。彼も根が優しいから、夜道で母親を振り払ったりするようなことはないだろう。


「また嫌われ役を買ったんですね」

「それが好きなのかな」

「そう見えますよ」


 目を見交わして微笑んだ。真次さんとは、口に出さなくても分かり合える安心感がある。お互い考えることが何となく分かるというか、表面上の言葉がどうであっても誤解なく受け止められる――と、自惚れてはいけない。

 正確には「分かられている」だ。真次さんが人並み外れた洞察力で相手の理解力に合わせて話してくれているだけだ。


『でも、夭輔にだけですよね』


 

 嫌われても分からない振りをしないのは――



 しゅる、と帯が解かれる。ふと目を横にすると、携帯電話が充電されていた。今は何時かしら。……きっと確認したら、メッセージ通知も画面いっぱいに表れるんだろうな。


「私、ここに寝ていた?」

「ん……」


 記憶はそこから朧げだ。真次さんは何て答えたんだろう。折角踏み入った話ができたのに、うとうとして眠りこけてしまったのか。そして……真次さんがここまで運んでくれたことになる。抱え上げて……?


「……ッ」


 少し圧し広げるように内腿に充てられた手にビクッと体を震わせる。そうだ、流されちゃいけない。罪悪感なんかあるはずがないんだから。


「ロゼットさん達もいるから……分かるでしょ」


 広いリビングルームを挟んで別室にいるとはいえ、鍵だってかかってない。襖一枚挟んだそこにふらりと起きていつ明かりが灯ったっておかしくない。


じゃなくて?」

 

 ぽそ、と耳に響いた言葉が意味ありげで思わずぐいっと胸を押し退け半身を起こした。襟を合わせて帯を固く締め直し、立ち上がる。

 す、と襖を引く。湖面に反射した星々で外は明るく、ひらけた窓から影が出来る程だった。山の贅を尽くした夕食も美味しく温泉にくつろいで、何より霧崎家に“家族”として受け入れられていることが心地よかった。

 ロゼットさんを目の前にして胸が苦しくなることももうない。そのことに心から安堵していた。これからは――

 それなのに、初めての“家族旅行”の思い出に、正に水を差す一言だった。

 何気ない言葉だ。冗談で流せない自分の方に未だ問題があるのかもしれない。でもそんな自覚もしたくなかった。


「ごめん……」


 後ろから抱き締めて彼が後悔を滲ませる。


「私の方こそ、御免なさい。折角探しに行ってくれたのに寝てしまっていて」 


 未だ義務的な口上になっているのは分かっている。怒っているのだ。でも彼に向けるべき気持ちではない冷静さはある。


「貴方は悪くないわ」


 むしろ自分が、彼の不安を払拭させなければならなかった。そういう意義を持った旅行だ。

 でも、やっぱり僅かでも気持ちを疑われたことは悲しかった。


「蛍はいなかった。今度は葉那と二人で来たい」

「うん……でも、」


 回った腕に、手を重ねる。

「家族として誘ってもらえて、嬉しかった……もっと仲良くなりたいわ。娘として認めてもらえるよう」行動できただろうか、と振り返ると少し不安になる。

「うーん……いや、葉那もそのうち分かると思うけどあいつら、、、、は」

 

 カラ、と引き戸が引かれた。びっくりしてトンと突き放す。

「おや、」と出てきたのは真次さんだった。そのまま備え付けのバーカウンターまで横切って、冷蔵庫からペットボトルの水と、コップを器用に片手に持つ。


「起こしてしまいましたか……?」

「いいや、起きていたよ。――星が綺麗だからな」


 見上げた夜空につられると合わせたようにキラリと星が流れ落ちる。


「蛍達には少し明るいな」


 ふいと微笑する口元は謎めいて、そういえば襟元が緩んで肌が見えいつにも増して色がある。思わず目を逸らしてしまった。おやすみ、と声掛けられて顔を上げるともう戸が静かに閉められるところだった。多分コップはロゼットさんに注いであげる為だろうな、彼もいつも――と思ったところで顔が火照りそれ以上変な想像はしないようにした。

 

「あいつらは何も考えてないから……葉那も気を遣わなくていい」


 戸を睨み付けると、促すように背を押す。大人しく和室に戻った。


  

 手を胸の上に組んで布団に仰向けになるが、目が冴えてしまった。

 浴場でのことを思い出す。

 ロゼットさんだ。出会った時からまるで歳を経ていない。あの時ですら随分若く見えたのに、このペースでは自分の方が先に年老いるのでは? もしかしたら真次さんもロゼットさんもというか霧崎家の一族は実は吸血鬼で、百年も変わらないとか……そしたら彼もで、自分だけ……


「血を吸われると移るんだっけ……?」

「葉那……寝言?」

「う……ん」

「可愛い」


 隣の布団から伸びてきた手に手を握られる。すっかり包む程大きい。酔いも冷め体も冷えた為か何だか急に人肌恋しくなった。


「夭輔……あの……」

 布団の中でもじもじした。さっき拒絶したばかりで、うまく言葉にできない。


「ちょっと……そっちに行ってもいい?」

「いい」

「きゃっ」


 がばりと半身を起こしつつ手を引かれてもう腕の中に居た。やっぱりちょっと乱暴なんだけど……でもこの力強さに安心する。ずっと繋ぎ止めていて欲しい。

 そのままきゅ、と抱きついた。


「何だかいっぱい褒められたい気分なの……私のどこが好き?」

「全部」

「……それか可愛いしか貴方は言わないから、全然分からない」

「何が?」

「私を好きな理由。学生の頃はあんなに嫌っていたくせに」

「……」最後はなじるようだったかもしれない。彼はちょっとの間思い起こすように思索に耽っていた。いい記憶は無い。責めるのはお門違いで、嫌っていたのはむしろ自分の方だ。  


「んー……今戻ったら滅茶苦茶甘やかしてぇなぁ」

「何よそれ」

「俺よりずっと自分を苛めてたよ。只管ひたすら厳しくて……俺は甘やかされてたから、葉那のおかげで少しはまともに育ったかな」

「甘やかされてる自覚はあるのね」

「叱られたことないから、葉那以外に」

「私と逆な訳ね」コン、と頭を顎にぶつけた。

「貴方程私を甘やかす人はいないわ」

「何でだろうな」


 私を抱えたまま背を倒しくるりと反転するともう指を縫い付けられ閉じ込められる。


「全部欲しい。葉那の為に生まれてきていたらいいな」

「私は、自立した関係がいいわ。盲目的にならないようにしたい」

「そうする」


 さっぱり言うが、分かっているかどうか。本当に底抜けに甘やかされて依存しないよう、自分をしっかり持たなければ。


「愛してるよ」 


 その声その瞳、求められるとつい理性のタガが緩んでしまうから。……でも、今夜は

 肌けられていくのを止められなかった。

 肌と肌が

吐息が

 視線が

唇が

 重なって交わっていく

 体液と

 体の器官と

 こういう風に人と繋がることでどうして充足を覚えるのだろう。

 まるで元々一人じゃ不十分にできているようだ。

 もう運命の人だなんて思い込まないようにしたいけど

 でもきっともうこの幸せを手放すことはできない……

  もう とろけそう だけど


「んぅっ……」

「葉那、声抑えてんの? 可愛い」

 

 試すように彼だけ何も我慢せず、もどかしくて恨めしくていつもより満足できなくて何度も求めてしまった。




 翌朝は珍しく寝坊してしまって、確認した時刻は朝食時間を過ぎていて冷や汗が垂れた。

 彼は彼で熟睡している。どうしよう、と呆然としたけど襖の外に物音も聞こえず、緩んだ寝顔を見ていると一人だけいい子を演じるのも取り繕うのも意味が無い気がしてきて、欲望に任せてもう一度ぬくい腕の間に身を滑らせた。

 今日は誰かに起こして貰おう。





〈 GW番外:Two Fireflies 了〉

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