番外編

§ End Credit 


 す べ て の 人 が 

 何 ら か の 檻 に

 入 れ ら れ て い 

 る。 



 ――君に似合う名前だと思う。


志帆しほさん」


 待ち合わせていた男性に呼びかけられて、頷いた。私達の間で名前は記号的な意味しか持たない。

「行きましょう」

 大通りに面するブティックの旗艦店の前、腕を取るとさりげなく振り解かれる。更に組み直して目を合わせ、にっこりと微笑むと観念したようにポケットに手を突っ込んだ。

 可愛い。

 年は四つ五つ下かな。

 二十代のその年数は、何か志して何か諦めるのには十分な年数で、たったそれだけ社会に揉まれるだけで随分と大人ぶることができる。


 試着室の前で待っていると、カジュアルジャケットにネックセーターと細身のパンツを合わせた、背の高い男性が扉を開けて現れる。海外製のハイブランドをまるでオーダーメイドに仕立てたモデルのように着こなす姿に、思わずほうと溜息を吐いた。


「お似合いですよ」


 褒めると少し照れくさそうに目を逸らした。

 無愛想で見向きもしなかった初対面の頃と比べると、随分気を許してくれたと思う。

「彼」と出会ったのは銀座のクラブでホステスと客としてだ。官僚高官であるらしい馴染み客が連れて来た、そのご子息だった。馴染みと言ってもプライベートで来ることは稀で、その時も海外赴任を経て数年ぶりだった。

 それでも私にとっては特別な人で、慣れずに失敗ばかりだった頃励まされて、また次に会えるまでと何度も思って気付けばお店の看板に迄なっていた。

 

 客、じゃなければいいかな


 カフェで運ばれて来たコーヒーに口を付ける姿を眺めてしみじみ思う。

 ――本当に、似ている

 その人とはせいぜい十くらいの年の差だと思い込んでいたから、成人した息子がいることに先ず目眩を覚えた。

 でもそうとしか言えないくらい瓜二つだ。俳優のように雰囲気があり、撮影現場の只中にいるような衆目を浴びても自然体でいて、自分までカメラを回された女優のような気分に浸ってしまう。……この男性を袖にするような女性がいることが、俄には信じられない。

 初めて席に着いた時は交際相手と少しの喧嘩中だったらしく、話し掛けてもずっと上の空だった。


『――受け取って貰えた』


 しかし仲直りを意味する花言葉のブーケを手渡しに行くようしたアドバイスが功を奏してからは、一転して信頼を得た。お相手は名家の子女らしく、それに見合うような立ち居振る舞いを身に付けたいと言う。

 仕事柄並よりは人と成りへの洞察力は付いたと思うが、品の良さと言うのは一朝一夕で身に付くものではない。し、彼には十分それが滲み出ていた。

 言葉や食べ方、姿勢に目線――何か一つ取って言えるものではないが共通して思うのは、綺麗で、寛容で、怯むところがない。ホステスとして注意し真似たそれ以上のものを、育ちと分かる自然さで身に付けている。

 気付いていようといまいと、既に彼らは同じ“向こう側”にいるのだ。


 それに比べれば服装やデート場所、レストランやお酒の選び方、誘い方なんて小手先の恋愛術テクニックに過ぎない。それでも、喜んで貰えたと屈託なく笑う顔を見れば役立てるのが嬉しく――

 ……ううん

 自分の理想の男を作っていくのが堪らなかった。私の言うままに一人の男性が形作られていく。洗練され、思慮深く、一番に思いやってくれて………教授と嘯きデートを叶えていった。その意中の女性より先に――


「志帆さん?」


 ハッとして口元を隠した。歪んだ唇の形を。突然愉悦を浮かべた顔を気色悪く思われただろうか。パン、と手を一つ叩いた。良いことを思いついたと誤魔化すように。


「水族館にはもう行かれましたか?――素敵なエスコートができるよう、ご案内します」


 人によって、最も気を引く言葉の鍵がある。賞賛、関心、利益……欲求を探り当て精製して嵌めれば、カチリと心の錠が開く音がする。後は軽く押すだけで容易に扉は開いた。


「きっとでしょう」



 嘘。

  


 中毒的に満たされる虚栄心。眉目秀麗な男性を伴って羨望のスポットライトを浴びる。プロポーズも控えた幸せな女に見えるだろうか。毎夜引き立て役に徹してきた心のおりがどうしようもなく浮遊し渦巻いていた。

 女としての嫉妬、見向きもされない反逆、持ち物を壊したくなる衝動、色んな色が入り混じって、醜い暗色になっていく。

 誑かしたって微動だにしない

 悔しい 悔しい 悔しい…………

 あの人も。この人も。



「ハリセンボンは千本も針がない、数は354――って、これ数えたのか」


 立ち止まって水槽横の掲示文を一頻り読んだ後、その作業を想像したのかくつくつと笑う。


「数えてる間に膨れっ面になったら吹き出すよな? というか近づいただけで過剰に威嚇してくるこの感じ、ちょっとに似て――あ、」


 可笑しそうに振り返りながら、気まずく目を滑らせ黙り込んだ。チクリ、と痛む自分の胸にはもう気付いている。これは仮想のデートだと、楽しそうにしていても「彼女」のことしか頭にないのだと幾度となく思い知らされる。


「――そういう風にからかわれるのは、余り好まないでしょうね」

「……ハイ」


 以降は、時々好奇心に目を取られながらも当初の目的に沿って自分を諌め、同伴者を置いてけぼりにしないよう気を配っていた。

 素直で呑み込みが早く、数週間もしないうちにすっかり振る舞いは大人びた。でもふいに気を緩めると子供のように無邪気な一面を覗かせる。それは糺すことでもないように思うが、本人の要望では「完璧な男性として」振る舞いたいということだ。事実「彼女」の態度にも変化が現れているというのが後押ししているようだった。全く接点のない――しかし男性のタイプが共通する“ご令嬢”に、興味を掻き立てられる。

 

「どういうところが、お好きなのですか?」

 

 時折彼が口を滑らせる人物像からすると、儚くも愛らしい深窓の令嬢というよりは、気位が高く鼻に付く感じの、物語なら悪役として登場しそうな令嬢を想像してしまう。一体何が王子様、、、をここまで魅了するのか。

 

「んー……」と彼が考え込んでから出てきた言葉は、「可愛いところかな……」という曖昧で凡庸なものだった。

「ご容貌が?」

「顔も可愛いけど……一生懸命なところとか、結構健気で、照れたり、我慢したり……でも俺にだけ甘えたりするところ」


 言うにつれまた口元が緩んでくる。余り参考にはならなかった。恋をする女性なら誰にでも当てはまりそうで、要は両想いなのだろう。何をやっているんだろうな、とは彼にか自分にか。

 私がしていることは結局茶番でしかない。お助け役どころか、彼女にとっては悪役――にも満たない噛ませ役か。いつもそうだ。いつも誰かの人生の端役で……成功したことは何もない。

 

 会話の糸は途切れた。聞き返したりする程の興味はないのだろう。沈黙すら気にせず、紅茶を啜っている。カップを置いて目が合うとフッと微笑んだ。どきりとする。


「あと、紅茶を淹れるのが上手い」

「そうですか……」

 

 笑顔を作る度私の良心が支払われていきとうとう底を付く。

 

 ――志帆さん、あの方には恩もあるし……お店の顔だけは潰さないようにね。この業界で生きていくならあなたの為にも……


 卓の下でぎゅっと拳を握る。


 律儀にもアドバイスへのお礼にと彼が再来した時、私は金の卵が転がり込んで来た心地だった。若いが気風が良く明らかな良客で、彼ないし彼の紹介に預かれば将来的な成功まで予感させた。だから『親切なお姉さん』のていでお店の外に誘い出したのも、初めは先行投資のようなものだった。同僚のやっかみやママの監視の目が煩かったのもある。

 何よりこの『ご子息』との縁を掴めれば、もっとにも関心を持ってもらえる筈――


 そんな打算を知る由もなく、彼は差し伸べられた手に些かの疑いも持たなかった。

 育ち良い男性にありがちな無垢さで、店の事情にも疎く、何より人からの好意を受け慣れていたのだろう。

 初めの目論見やそれに基づく自分の行動が間違っていたとは思わない。強かに生きなければただ古びて剥がれ落ちていくだけ。そういう岐路に立っていた。



 ただ

 欲しくなってしまった。どうしようもなく。

 だから

 

  

「初めて彼女から家に誘われたんだ。映画を観よう、て」


 嬉しそうに報告しながらも、同時に浮かぶ不安を顔に読む。

 ――的外れな感想を言って幻滅されないか。

 チラリと向けられる視線に、当たる占い師に当たってしまった同僚を思い出す。間違わない道だけを他人に訊いて進むと、一人では立ち止まってしまう。


「よく観察してください。これまでお伝えしてきたことと同じです。言葉だけでなく表情や仕草、行動から相手のして欲しいことを読み取って。どんなに気取って見せても、人は皆気付いて欲しくて堪らないんですから――映画はその為に作っているんです」

 

 生真面目な教え子はこくりと頷く。


「大丈夫、とても素敵になられました」

「ありがとう、志帆さん。俺は……ようやく彼女の夢を叶えてあげられると思う」

 

 その時私が彼を抱き締めたくなったのは、卒業を送り出す教師のような気持ちからだろうか。

 見えない檻に自ら入っていくことを成長と呼び、その躊躇を掻き消すように拍手する。


 もしかしたら刹那抱擁をしたかも知れ無い、そんな間の後彼は告げた。


 

「プロポーズをするよ」


 

 それがされてもおかしくない摩天楼の天辺で、レストランの雑踏も雑音も掻き消えて 

 私の役目は終わった。  

 僅かでも喪失感を感じた自分に呆れてしまう。

 クランクアップで恋人役を演じたヒーローとヒロインに本物の恋心が芽生える――そんな無謀。現実はその結末すら私が知ることはない。

 

 私にできるのは、初めと変わらずはんなりと微笑むだけ。

  

「最後にお伝えすることがあります」 



 1502



「……最後って?」


 フロアを途中で降り金文字が鋲打たれた扉の前で、男性は立ち止まる。

 ホテルの個室で妙齢の女と二人きりになることの意味を流石に汲み取ったのだろう。が、ビジネスライクな余裕を崩さずに妖艶に微笑む。


「彼女様のよろこばせ方、、、、、、です」


 刹那瞳が揺れる。デート終わりの“誘い方”に及ぶと濁すところから、察していた。拒まれたか踏み出せないか、上手くいってないのだろう。可哀想。お姫様気質の女性を満足させるには、余裕を持ったそれなりの慣れが必要だ。砕かれた自信を癒してあげたかった。

 彼は見つめ返して、そして首を振った。


「……喜ばない」


 静かだけどきっぱりと。広い入れ口のガラスの水差しに、蛇口を捻っても水が出て来ないそんな寂寥と空虚さに潰されそうになった。


「そう、ですか。では」


 ふわ、とその胸に縋った。印象より広い。


「――私じゃ、ダメですか?」  

 

 息を呑む音が聞こえる。

 そう。本当は、私が欲しいだけ。

 卑怯だと分かっているけど、もがいてもこの檻の向こう側には行けないから。


「困らせようとは思いません。ただ……苦しくなったら、私に吐き出して欲しい。あなたのものは壊さないから……ただ、役に立てたら……あなた、、、に必要とされたら、それで」


 その腕がゆるりと私を抱き留めて、陽だまりのような暖かさに包まれた。そして慰めるように背をさする。分かっているよ、と呟いて。


「俺じゃ、ないだろ」


 込み上げて込み上げて、嗚咽した。

 欺瞞は見抜かれていたんだ

 誰に似せようとしていたか




 ――志しを帆に立てれば、荒風も力に変えてきっと辿り着く。君に似合う、名前だと思う。



 

私の源氏名志帆は、あなたのお父様が付けてくださったんですよ」 


 海の見えるラウンジテラスで、化粧の剥がれた肌に潮風がひりひりと痛い。


「……映画の字幕翻訳者になりたかったんです。でも就職は全部うまくいかなくて――留学したらきっと変わる、いえ、“失敗”を引き延ばしたくて、初めはツナギだと言い訳して夜の仕事に就きました」

「それが……もうご存知ですよね。帆は薄っぺらでとっくに穴も空いて、港で朽ちていくだけの、馬鹿な女です」

 

「俺はそう思わない」


 彼は言って、メモ用紙にさらさらと何か書いて寄越した。薄黄色の紙が綺麗な英字で埋められている。

「これは……紹介状?」

  と言ってもこんな体裁だし、自分のわきまえればせいぜい語学留学で、こんな名門校じゃ門前払いもいいところだ。それにもう、夢を笑われない歳は過ぎてしまった。だから、でも


「失う程大切なものを持ってから、悩めば?」


「え?」

「――俺が留学を迷った時に言われた言葉。

 何であんな断定的なことが言えるんだろうな……。けど、本当に大切なものは自分が前に進むことで失くなったりしなかったし、本当に失いたくないものには悩まない。そういうことを言ってたんだと思う、多分」


 夕暮れの中軽くいう言葉は他人事で、日は沈み掛けている。


「……帰って荷造りしたら、未だ間に合うでしょうか」

「さあ。けど、次が一番早い便」


 立ち上がった彼に、手を差し出される。

 ふふ、と笑って最後のエスコートを受けた。


「見送りはタクシーの扉を開ける迄で、いいですよ」

「ハイ、先生」

「リカ。私の名前は、沖 理香です。次は――」



 いつの間にか忘れていた

 あの言葉の続きを思い出した

 自分が夢見たきっかけも 



 流れていく記号の羅列

 エンドロールの隅っこに

 誰の記憶に残らなくても

 自分で自分を見つけられたら

 主役でも端役でもなくて

 スクリーンの外側から

 誰か見つけてくれたら



「エンドクレジットで会いましょう」

 




 す べ て の 人 が 

 何 ら か の 檻 に

 入 れ ら れ て い 

 る。


 し か し 扉 の 鍵 

 は い つ も 開 い 

 て い る 。


 ――ジョージ・ルーカス





 エンドロールの端まで来て停止する。

 以前までは退屈で、家でもジッと見送る彼女を横に立ち上がっていた。今日はコーヒーを用意しない俺に彼女は微笑みかける。

 

「覚えられる訳じゃないのだけど、追ってしまうのよね。一つの映画に、見えないたくさんの人生が挿し込まれているような気がして……。特に、翻訳にはそれが表れている気がして、いつも字幕を選んじゃうの」

「そういうところも、好きかな」



 

 End Credit END.

…………………………



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