First contact#0:霧崎真次


「あの人なのね」 

 

 自邸の庭園で水面越しに『許嫁』と初めて顔を合わせた、その後。

 会食は当たり障りなく終わった、と思う。気恥ずかしくて手元ばかり見つめていた。耳を澄ませて聴くその声はとても穏やかで、自分の鼓動の煩さを抑えるのに必死で内容は殆ど覚束なかった。

 見送りをした後気が緩んだのかふう、と息を吐いた母親にもっと詳しく訊こうと尋ねると「え……?」と焦ったように見返された。

 ――どうして今更隠そうとするのかしら。


「私、分かっているわ。日下家の長女だもの」


 年の差があったって……あの人なら。


葉那はな、違うのよ。未だ正式な話ではなかったの。それどころかあちらはこういった家の事情で子どもの将来を決める事は本意ではないと仰っていて――だから、ね。貴方は未だ考えることないのよ」


 胸がざわりと奇妙に波立った。

 そんな筈、ない。幼い頃からあれだけ聞かされていて、両親からもそれを否定するような言葉は聞いたことがなかった。

 気遣わしげな母の表情が物語るのつまり――

 、断りを入れたんだわ。


『迎えに来た』


 私の十二年間は……?

 認めない。選ぶのは私よ。


 父にねだって懇親会やパーティに同行した。政界、財界、官界……その社会の輪郭から映し出される人物像。


 霧崎きりさき

 家柄は代々官界、一族で要職を占めながら特に外交においては古くから国外の王侯貴族とも深い親交を築いている。

 霧崎真次きりさき しんじ

 その本家次男。若くして頭角を表し本家内外とも関係は良好で信頼が厚い。

 一族内でも無視できない実権を持つ。

 外交官としての赴任先で王室からの求婚を断り田舎の農園の末娘と結婚

 

 ――


 自分が大きな勘違いをしている事に気がついた。結婚相手との間に嫡男も設けている。それも自分と同じ年。こちらだ。

 『の将来』……

 そう、初めから相手はあの人ではなかったのだ。

 

 思わず唇を噛んでいた。


 どうして? 年はせいぜい一回り程しか離れていないように見えた。

 もう会える事はないというの? 馬鹿にしている。そんなの一方的過ぎるわ。


 *


「すみません、お忙しいのにお呼び立てして。霧崎きりさき……真次しんじさん」


 タワービルのレストランで食事の約束ができた。

 恐らく向こうから縁談を断ってきた事もあって父の口利きであれば断れないと踏んでいた。優位な立場よ――そう言い聞かせて、一対一で向き合う大人の男性に気後れしないようにする。


「いいや、君とまた会えて嬉しい。不思議だな、ひと月程しか経っていないのに……雰囲気が随分大人びた」

「そうですか?近頃は父に方々連れて行って貰ったからかもしれません」 

「ああ、羨ましいな君の父上が」

「そ、そんな事……仰られても、」


 さっと頬が熱くなるのを感じた。どうしたの、私は……こんなお世辞、これ迄も議員や大企業の重役からこぞって受けて来たのに口籠るなんて。


「私の子も君と同じくらいの年齢なんだが、連れ出すどころか口を聞くのもやっとでね。家を空ける事が多かったから当然だが……少し寂しくはある」

「そんな、お仕事なんですから当然です……」


 つくんと針で心臓を刺されたような気分で実の入らない返事をする。

 そういう意味か。でもそれなら


「私は霧崎さんのご子息が羨ましいです……霧崎さんとのお話は、学べる事が多いので」

「君は勉強熱心だな。将来、何か目指している事があるのか?」

「え……」


 どうなのかしら。女性の社会的立場についてこの方はどう考えているのか……確か奥様は職の経験は無い筈。それなら……と、答えあぐねていると。


「息子は将来進みたい道があるようだ。私は現職に躊躇ためらいも無く就いたが、自らの意思で道を開こうとする息子を誇らしく思う。――応援しようと第一人者を紹介したりしたら余計だったようで、益々嫌われてしまったが」


 微笑する面影がだけど少しだけ寂しそうで、胸が締め付けられる思いがした。


「私……私は、霧崎さんは……」


 余計なんかじゃない

 今まで誰にも、家の役割以外の道を訊かれたこともなかった

 私も家柄なんかじゃなくて――


の事、もっと知りたいです。その、お仕事の事……色々な方から聞いて尊敬しています」

 思わず呼んでしまった名前。恥ずかしくなって口窄くちすぼみながら俯いてしまう。

 

「そうか、それは嬉しいな。私で良ければ何でも訊いてくれ」


 だけど澱みなく優しい声が返ってきて。

 朗らかな微笑みに、社交辞令だと分かっていても自然に口をついて出てしまう。


「じゃあ、次は……」


 このニ回目の食事で、分かってしまった。

 もしかしたら余計なプライドで会わない方が良かったのかもしれない。

 ――次の約束をできた時、明らかに私の胸は高鳴っていた。       

 


 ***



「お嬢様、最近はとてもお洒落にお気遣いですね」

「そうかしら?」


 結いたての髪と最近購入した洋服が合うか鏡の前で確認しながら返事をする。グロスは家を出てから付けようとポーチに忍ばせた。


「本当に、この間迄ランドセルを背負っていたとは思えません。気品も大人の女性のようで――あ、失礼しました」


 流した目で睨んで黙らせる。

 幼い頃から世話をしていたからと言って子ども扱いしたがるから嫌だわ。私も後数年もすれば結婚もできる年だというのに。


 

「館長、今日は頼みを聞いてくれて有り難う」


 真次さんが誰もいない美術館へ連れて来てくれた。

 絵画の話題で昔フランスで見たある絵をもう一度観たいと話したら偶然その絵が巡覧で日本で展示される事になっていて、会期前に所蔵を見せて貰える事になったのだ。


「いえいえ、この展示を開催できたのも霧崎様のお力添えあってのものですから……お安い御用です」


 一緒に絵を観た後カフェラウンジで食事する。

 メニューを一目見ただけで、私が好むものを真次さんが注文する。真次さんとは何もかも一致する。会話の内容も、興味や趣味も、食事の好みも、目線や呼吸のタイミング迄……。まるで私の理想を写し取ったように。


「館長が真次さんのご協力と言っていましたが、芸術にも特別な繋がりをお持ちなんですか?」

「いや、音楽を少しやっていてね。趣味で集まった仲間の中に絵の収集家もいて……まあそんな繋がりだ」 

「音楽を。私もピアノとフルートなら少々……楽器は何を?」

「バイオリンだ」


 短く答えてから物思いに耽るような表情だったので、聞いてはいけなかったかなと少し後悔する。


「世にも素晴らしい演奏に出会ってから聴く方が専門になってしまったが」


 くしゃりとした目尻に安堵した。


「真次さんからそれ程評価されるなんて本当に素晴らしい演奏だったんですね。どちらの音楽家ですか、早速聴いてみたいと思います」

「いや、世には出ていないんだ。また聴ける機会があれば、そうだな――今度は妻と聴きに来ると約束しているから、息子と、きっと君も誘おう」

「いえ、私はその後のいつでもいいですわ。ご家族の水入らずをお邪魔する訳にはいきませんもの」


 にっこりと微笑んで言うと、真次さんは真直ぐ目を見つめて。


「もし君が良ければ、家族に紹介したい。家で食事でもどうだろう」

「――ええ、勿論」


 秘密で会っている様な気分だったのでやや返事が遅れた。畏まった表情に見えてしまったのか、真次さんが付け足す。


「勿論堅苦しい事は抜きで、私の大切な友人としてだ。春からは同じ学校に通うようだし息子にも君を紹介できれば」

「ええ勿論です、真次さん。確かこれ迄は奥様の母国で生活されていたんですよね。日本の教育制度や雰囲気とは異なるところもあると思いますから、早く馴染めるよう私も色々と案内したいと思いますわ」

「有り難う」


 真次さんが嬉しそうにすれば、私はその何倍も嬉しくなった。


 息子、か。

 本来は許嫁の相手だった筈の人物。


 今迄も同年代は全く幼稚に見えていたけど、真次さんと親交のあった後では尚更それが深まった。

 自分はこんな大人の男性に『友人』と言ってもらえる程なのだ。真次さんは全く年齢の事は関係なく、いつも一人の人間として接してくれる。他の大人達のように、議員の娘だとか家元だとか、そういう役割とは一切関係なく。


 正直なところ余り『家族』を意識したくなかったが、こうなったらその『息子』から近づくのも悪くない。


 ――と、はっとする。


 私、何を考えているんだろう。こんな考えに真次さんが気がついたら、きっと失望するだろう。そもそも自分があの人とどんな関係を望んでいるのか分からないけれど……今は少しでも傍で時間を過ごしたい。もっと信頼を得たい。

 


 飾った絵画の絵葉書に触れ、想い出す。これを渡してくれた時に触れた手の温度、微笑みかけてくれた表情。きっと真次さんは、娘が出来たような気持ちで接してくれているんだろう。そして自分も、父親とは築けなかった関係をなぞっているのかもしれない……

 あんなに素敵な人のどこに不満があるというのだろう

 真次さんの息子――

 絵に描かれた家族を見つめながら、ぼんやりと思い馳せた。



 ***



「ようこそ。こちらが妻のロゼットだ」

「お招きありがとうございます。真次さん、ロゼットさん」


 お辞儀をして、顔を上げようとすると体に何か飛び込んで来ていてよろめいた。


「ようこそ、葉那ちゃん!」


 何かと思えばぎゅう、と銀髪の女性が体に抱きついていた。

 背丈は殆ど変わらない。だけど体がすこぶる柔らかかった。痩せ気味で背の高い母とは全く異なる。そもそも母と抱き合った事などないが。

 それに、押し付けられた胸は豊かで……幼げな顔付きと裏腹に体付きはとても肉感的だった。何故だかショックを覚える自分がいた。


 ――この人が真次さんの選んだ女性……?


 スキップするように案内されながら思わずにいられない。

 ドレスのデザインはレースがひらひらとしていて、フランス人形のよう。仕草の幼さと肉感的な体のギャップと……頭がくらくらとした。

 どうして……どこに……

 自分が思い描いていたような、聡明で貞淑な女性の姿はどこにもなかった。

 真次さん……何かの事情があって結婚したんじゃ……


 席に案内されると四人分のカトラリーとグラスが用意されていたが、一つ隣の席は空いていた。


「すまない。息子とは連絡が行き違ってしまったようで、今日は来れないんだ。だがもしかしたら途中から顔を出すかもしれないから……」


 申し訳なさそうに真次さんが言う。


「ごめんなさい、旦那様……ロゼが」

「いや、いいんだロゼット。お前のせいじゃない。――今日は君に妻を紹介できただけでも嬉しい。息子とは学校で顔を合わせるだろうしな」

 真次さんは朗らかに微笑んだ。


 *

  

 ――やっぱり、分からないわ。


 一人部屋に戻ってソファに腰を下ろしため息をついた。お気に入りのカップに入れたダージリンティーを口につける。


 とても若い奥様だった。 

 赴任先で出会った時は一体幾つだったのだろう? 

 何を見初められたのだろう?

 それとも真次さんと言えど若気の至りで――


 出会っていたのが、私だったら……


 ぼっと顔が熱くなった。いけない、何を考えているのかしら私は。それにしても、真次さんといて時間が長かったのは初めてだった……

 そう、無理だったわ。

 真次さんが奥さんと仲睦まじげにしているのを目の前にして微笑むのは。これまでこなしたどんな事より難しかった。せめてもっと真次さんに吊り合うくらい完璧な女性だったら納得もできたのに。これじゃあ気持ちのやり場がない。


 それにしても結局今日姿を現さなかった息子さん――確か夭輔ようすけと言ったかしら。真次さん、残念そうにしていたわ。どうしてそんな反抗的な態度を取るのかしら。真次さんの気持ちも知らないで……。


 その『息子』と初めて顔を会わせたのは結局、学校へ入学以降の事だった。

 真次さんと後の。



 ***



 休日、中等部の学院長に呼び出され、何かと思えば特別クラスへの入学決定と、本題は部活動の入部先に探りを入れる事らしかった。


 華道、茶道、弓道、合気道、と施設や功績の説明を一通り受けた後、また後で決めますと言って出た。華道と茶道は免許皆伝しているけど、明らかにプロの世界より劣る場所で遊ぶのも時間の無駄だ。


 ……と廊下を歩いていると不意に目の端に黒い影が映った。


 自然に足が追いかけていく。


 見失った先は行き止まり――鍵が掛かっているはずの、時計台への扉だった。


「真次さん」


 学院の広大な敷地を見下ろす最も高い場所に立つその背姿。考えるより先に確信を持って声をかけると少し驚いたように振り返って煙草の火を消した。


「煙草、吸われるんですね」

「ああ……」


 いつものように微笑して、でも決まり悪そうに吸い殻入れにしまう。


「いいんですよ、私の父なんかお構いなしに人前で吸っていますから」

「……言われた訳じゃないんだが、妻に知られたくないんだ。秘密にしてくれないか?」

「いいですよ。でも、何故?」

夭輔ようすけ――息子が生まれた時に辞めて、それ以来辞めた振りをしている」


 なんだか可笑しくてふふ、と笑った。真次さんの人間的な部分を初めて見た気がした。


「どうしたんですか、こんなところに居るなんて」

「ああ……息子が通う学校を見て置こうと思って」


 少しだけ、その微笑が寂しそうになったのを見た。そういえばなんだか今日は少しだけぼんやりしている気がする。隙があるというか。

 真次さんにもこんな日があるのね……それとも、少しは私に気を緩めてくれるようになったのかしら。


「ドイツに行く」

「え」


 驚いた。けれど、そうだ。何故考えもしなかったのか。職業柄、ずっと日本にいる訳ではないのだ。


「いつですか……」

「明後日だ」

「……」


 ぎゅ、と唇を噛んだ。

 私になんか今日会わなかったら言わずに発ってしまっていたに違いない。

 少しは近くなれたと思っていたのは自分だけだった。


「真次さんて、どうせいつもそうなんでしょう」


 胸に向かって手を伸ばす。


「え?」

「もしも、どこか遠い国で真次さんを好きになってしまった女性がいたとしたら、真次さんは恋愛ごっこを少しだけたしなんで、後は何も言わずに姿を消すんでしょうね」


 胸ポケットに入っていたジッポライターを摘んで、カチリと開くと炎がゆらめく。

 触れてみたくて指を伸ばした。しかしパチンと音がして、もう真次さんの手の中に戻っていた。


「危ないな」真次さんが指に触れる。

「火傷したらどうするんだ」

「どうもしませんよ、真次さんがつけている傷の深さに比べたら」  

「……」


 真次さんはまた少しぼんやりとして、淀んだ空を見上げる。


「やっぱり、そうか」

「――嘘です。言ってみた、だけです」

「いいや、そうなんだ。俺は本当に、あいつの前だとどうしたらいいか分からずに恰好を付けてしまう。それが到底父親の姿ではないと分かりながら」

「君は父親が自分を愛してはいないと言ったな。娘という役割に期待しているだけだと……。そんなことはない。信じてくれ」


 真次さんが真直ぐに、黒曜石のような瞳で見つめる。


「きっと君を、深く愛している筈だ」


 くす、と笑ってしまった。


「それを言えばいいじゃないですか」

「それができないから困ったものなんだよ」


 真次さんが困り笑いをする。

 ああ、色々と真次さんの微笑みが分かって来た。いつも変わらない穏やかな微笑をしているようで、ずっと色々な表情をしている。


「さあ、帰ろうか」


 真次さんが促すように手を差し伸べるので寂しさと自棄やけが手伝いその手に指を絡めてみる。


「妻が妬いてしまうな」

「私、父と手を繋いだ事ないんです」

「君には参る」


 真次さんはくすっと笑って手を握り返してくれた。


「私の名前を呼んでくれますか?」

「葉那君。君に幸運があるように」 

「真次さん、私きっと……次に貴方に会う時には、もっと魅力的になっています。息子さんは私に任せて……いってらっしゃい」


「ありがとう、可愛い友人」


 微笑んで、頭を撫でてくれた。


 そしてその『明後日』、庭の池に飛んで行く飛行機が写るのを見た。

 たった数ヶ月前でずっと昔の、あの日を想い出す。


『迎えに来た』


 その人は届かぬ空へ行ってしまった。


 ――将来、目指していること――


 もう一度手を伸ばせるというのなら

 たとえ実を落としてでも



  了.



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