第 Ⅱ 部 真実の恋人
第4章 本物の恋人
第21話 戻って。
「急いで」
腕時計をちらと見て、運転手を急かす。
門限が7時だなんて無理がある。
だけど公務員が定時でないのはおかしいだなんて直接圧力を掛けられたらたまらないから、普段の仕事を完璧にこなして残業は断るしかない。
職場ではやはり浮いた存在だろう。『箱入りのお嬢様』その視線が嫌でも、それに甘んじて帰宅しているのだから何も言えない。そんなことも以前迄は全部なんてことなかった。ただ追いかけていられたから。でも今は、海外での縛られない人間関係と生活が恋しくないと言ったら嘘になる。
本当に、楽しかった……
だけど
『帰ってくる』それどころかもう空を飛ぶことすら叶わないのかもしれない。
帰国したら既に見合い話が勝手に進んでいた。表面上無理に結婚させるような事はないと思うけど、どちらにせよ何度かは会わなくてはいけない。家の繋がりにヒビが入らないように断り文句を考えながら。
キ、と車が止まるなり急いで降りる。
帰宅途中で上司から電話が掛かって来たのだ。約束の時間に間に合わないので必要な書類を代わりに受け取って来てほしい、提出は出勤してからでいいからと。
溜息が出てしまう。
『普通』だったらなんてことないのだろう。
門限を遅れたら仕事を辞めさせられるなんて、知らない事情だ。まるで子どもが遊びを禁じられるように。それでも
――真次さんなら絶対にこんなことはなかった。
退勤後の部下に頼らないと破綻するようなスケジュール管理なんて。有能な上司の唯一のデメリットは、後任に不満を持ってしまうことね。
銀杏並木の続く大学構内に入り案内板を見る。書類を受け取る筈の研究室……そこまで詳しくは表示されておらず、そもそも建物ですら当たりをつけるには多過ぎる。問い合わせ時間はもう終了しているだろうし辺りに人影もない。
せめて連絡先くらい交換していてほしい――なんて愚痴を頭の隅に追いやって一度目を閉じた。いけない。状況改善を
とにかく適当な建物に入って誰かに尋ねよう。
急足で階段を駆け、ちらと視線を落とした。
――どん
ああ余所見をした手首の時計盤が遠ざかる。
人にぶつかって最後の段に足は着かなかった。瞬く間の浮遊感の後に背から落ちていく感覚、はしかし続くことはなく伸ばされた手に力強く引き戻された。
「大丈夫か?」
「ごめんなさい……ありがとう」
白衣。学生かしら?この人に訊けば、
「あの、失礼ですが医学部の研究室はどちらに」
顔を上げて固まった。
「取りに来た書類ならここにある」
「……」
「どうぞ」とA4サイズの茶封筒を手渡される。
「急ぐと危ないから気を付けろよ」と親しげに手を振って。
「――ちょっと、待って……貴方」
「何か?」
「何で貴方がここにいるの?」
背の高い、白衣の男性が笑った。
「お前を追いかけて来たから」
「霧崎く…ん……」
ぽろ、と涙が一粒転がり落ちた。
井戸の中……
指輪を落として来た。
絶対に結ばれる事なんてないから。
――だからせめて、つがいの指輪が同じところにあるように。追いかけて底迄落ちて行く勇気のない私の代わりに、願いの井戸では幸せに……
「な、泣くなって」
彼が慌てたように私の手を引き、近くの講義室に引き入れた。
「驚いたのよ、仕方ないわ……」
ぽろぽろ溢れた涙をハンカチで押さえて拭き取る。
「でも……貴方、何しているのよ」
「日本との共同研究、ついでに客員教授」
「じゃあ偶然なのね……驚いたわ」
「そんな訳ないだろ?俺の目的はお前だけだ」
「嘘……」
「ちょっとだけ理解できたぜ、あいつのやり口も。結果に届く為なら手段を選ばない」
「でも、私は……――それでも貴方と結婚はできないの」
「それなら愛人でいい」
「――え?」
何を言ったか分からず目を瞬く。
「日下家の当主なら愛人くらいいてもいいだろ」
「貴方、私に不倫しろって言うの?」
「よく言うぜ。息子を利用してまで企てた奴が」
「それは……そう、だけど」
でもつまりあなたは
「私が他の人と結婚してもいいの?」
「最悪は、お前と離れることだから」
「どうしてそこまで……」
幸せにはならないことを、知っていても?
貴方もまた――
「愛してるって、言っただろ」
「可哀想ね」
「人に推し量られたくない、な」
いつかの言葉を返されてぷっと二人で吹き出す。全然笑えないのに。
「そういえばお前、やけに急いでたけどどうしたんだ?」
「――いけないわ。門限が」
気がついて時計を見るがもう間に合いそうにない。
「門限、て言葉久し振りに聞いた」彼は笑う。
「冗談じゃないのよ」
溜息を吐いて携帯電話を取り出すとそこに手の平が差し出される。
「お嬢様は霧崎家で預かってる・て言ってやるよ」
「助かるわ。でも貴方が家の名前を利用するなんて」
「大事なのは葉那だから」
整然と並べられた机に椅子。
彼のいる「教室」を目にしたのは高校の卒業以来か。無愛想で人を寄せ付けず、いつも不機嫌そうだった。何が最後に交わした言葉かも思い出せない。その忘れさせない面影の、けれど事実を突き付ける蒼い視線にいつも責められた――気がしていた。
同じで違う瞳が今はこちらを真っ直ぐに見つめている。
『
重ならない姿が重なる。
「……先生に、教えてもらいたいことがあるわ」
「夜の教室で? まあとりあえず帰ろうぜ、霧崎家に」
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