第22話 戻って、戻って。

 彼の『家』は大学から少し離れて落ち着いた、分譲マンションの一室だった。アメリカに居た頃と変わらないスケールの広さで、日本ではファミリータイプと言える部屋数がある。


「一人で住んでいるの?」

「二人で住めるぜ」


 霞ヶ関にも近いし、と足して何か期待した目を向けてくる。


「霧崎君って、ちょっとストーカー気質があるわよね……」


 あまり冗談に聞こえない。 


 リビングに照明が付く。 

 明るいけれど静かで、人の気配を感じない。

 ――当然か。

 自分の帰る本邸とはまるで違う。出迎えから食事の用意まで片時も人の目がない時はない。武家屋敷のように土地は広いのに、一人になれるのは寝起きする自室のみだ。それを不満に思うのは我儘よね――家の恩恵は享受しておきながら。


「掃除とかって、どうしているの?」

「今の世の中便利だから。――勿論、自分でもできる」


 あっさりと言った後、彼は言い訳をするように付け加えた。


「……羨ましいわね」


 ポツリと先に呟いていた。考えない方がいいことを。


「葉那も家を出ればいいのに。向こうでは部屋を借りてただろ」


 なんてことないように言う。 


「許してくれないわ」

「許される必要が?」


 言いのけた直後に彼はまずい、という顔をした。思わず伏せた目の他に何か顔に出てしまったのかもしれない。


 ――貴方は恵まれているのよ。


 根から絡みつくような家の縛りもなく、養分だけ受けて伸び伸びと自由に枝葉を伸ばす。

 ああ、だからあんなにも私は

 墨汁のように滲み出てくる感情を抑えた。


「帰るわ。お茶を一杯頂いたには丁度いい頃合いね」


「葉那……聞きたいことって?」

「また今度ね」


 にこりと微笑みを作って話を終わらせる。

 何で来たんだっけ。

 すると彼は阻むようにドアの前に立つ――のではなく、その扉を開けた。


「送る。勝手な事を言って、悪かった」



 *



 東京の道路を走る。

 ヘッドライトが次々通り過ぎて行く。車内と彼の顔を明滅させて。


 何故帰って来てしまったのだろう。

 あのまま終わっていた方がよかった――お互いにとって。愛人だなんて馬鹿なことを言わずに。

 いつか隣に乗せてくれたあの人とは違って気の利いた事一つ言わずにただ黙って、車道の音と光だけが過ぎていく。 


 塗り壁の塀沿いに、実家の門構えの灯りがぼんやり見えた。


「停めて」


 数十m前で停止する。

 彼を家の人間に突き合わせたくはない。

 ろくな挨拶もできないだろうし、そんな批判を受けさせたくもない。

 ――庇う訳じゃない。霧崎家真次さんの估券にも関わることだから。

 カチリとシートベルを外した。

 ふう、と呼吸を正す。『お嬢様』に戻らなきゃ…… 


「……大丈夫か?」


 シートに掛けたままの彼が訊く。

 降りてドアを開けてくれたらそのまま戻っていけるのに。突き放すのも気怠くて、自分でドアハンドルに手を伸ばす――その時フロントガラスの向こうに、門の灯りの下黒塗りの車が一台停まるのが見えた。敷地には入らず門前で止まる。

 タクシーかしら。この暗さだから向こうからは気づかれないだろう。

 後部座席から一人、背広姿の男性が降りて来て――


「真次さんだわ」


 驚いて息を呑んだ直後声に出る。

「それと……父かしら?」

 続いて出てきた男性の肩を支えるようにして門をくぐって行った。恥ずかしくて手をぎゅっと握る。


「嫌だわ……酔ったのかしら。真次さんの前であんな体たらく」

「……親父?」


 彼は訝しげにする。確かに顔は見えなかったが心臓が早鐘を打ち出したので間違いない。

 どうしよう。今すぐ扉を開けて追いかけたい気持ちとその反対の気持ちとが天秤を揺れる。


 ――迷惑じゃないか、と言った彼の言葉が脳裏に響いて押し留めた。


 それを裏付けるように、あれから一度も声掛けられていない。部署も変わり役職も遥かに違うので本来は当然のことかもしれないけど。誰にも気さくなあの人、それも一応旧知であることを考えれば不自然であることは否めない。


 ブブ、と横で携帯電話が振動した。チラと彼は通知画面を流し見る。


「――帰りが遅くなるからで預かったお嬢様は今晩泊まってもらうって」

「……どこに?」

「『霧崎家』かな」と彼は肩を竦めた。


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