第34話 彼の変化。
一日に何度も携帯電話を確認してしまう。
あんなに届いていた彼からのメッセージや着信が、パタリと途絶えた。
返信もせずに拗ねるのは大人気ないが
「霧崎君が、悪いんだから……」
あの時
首輪に指を掛けられてその顔が間近に迫った瞬間、きゅっと心臓が絞られて身体が熱くなるのを感じた。
――絶対に、ダメ――
もう変になりたくないのに
ピポピポ
呼び鈴が突然鳴って、携帯電話を取り落とす。
インターフォンのカメラが、彼の姿を映し出していた。
『葉那……許してくれるまで待ってる』
自分からどう折れていいか分からず、訪ねてくれた彼の姿に内心安堵する。
「家の前で待つのは反則よ」
溜め息を吐いて見せながら、マンションのオートロックを解いた。
扉を引くと、目の前に現れたのは花束――を差し出す、明るいサンドベージュの背広を着こなした男性の姿だった。思わず二度見をするがその深い藍色の瞳は彼のものだ。動揺を見せてしまった照れ隠しもあって、ツンと顔を背ける。
「そんなご機嫌取りしても――」
目端に映る、真っ白なカンパニュラのブーケ。ふっくらとしたドレスのような花々が、腕いっぱいに咲きこぼれこちらを見つめている。
「……綺麗」
突き返してこの花達を悲しませることはできなかった。
花瓶に花を差す。
彼は家に上がることなく、帰ってしまった。
突然来て悪いなんて今更なことを言って。
『仲直り』なんて花言葉、彼が分かって渡したとは思えない。受け取っただけじゃ伝わらないだろうと思い、メッセージを送った。
《もう怒っていないわ》
隠れ家のように都会の喧騒から離れたビストロ・フレンチのレストラン。仕事帰りの格好でも
連れて来られたのは意外だった。
誰もが知るハイブランドホテルのレストランなら間違いないだろうと、いつも大雑把な店選びしかしない筈なのに。
「何だか霧崎君……今日は落ち着いているのね」
こなれた様子で彼はボトルワインを注文し、グラスを合わせる。いつもはメニューを渡して何でも好きなものを、なんて言うのに。
「そうか?」
「ええ……それに服装の感じもいつもと違うわ。どうしたの?」
「葉那に釣り合う男になりたいから」
「私に?」
小首を
何か――変だわ。傲慢さが足りないというか。
タクシーで送られて部屋の鍵を開ける。
普段は自分の家との別も無く、何も言わなくても我が物顔でくつろいでいくのに今日はどうしてか玄関先で靴を履いたままだ。
「……お茶でも飲んで行く?」
「明日も早いだろうし帰るよ。お休み、葉那」
「そう、おやすみなさい」
てっきり破顔する
スローテンポのジャズミュージック、お気に入りのフレーバーティーの甘い香りが漂う。読み溜めていた文庫本を開く幸せな時間の筈なのに、なぜだか文字が味気なく滑ってしまう。
今日はこんな時間ができるとは思っていなかった。揃えた
――恋人、か
いつまでも続けられる関係じゃない。そしてそう告げられた彼もいつまで甘んじてくれるかは分からない。言動から察するに、彼は随分結婚を急いでいるようだ。考えた事がなかったが、別れを告げられたら引き留める権利は当然ない。彼が望む先を私では叶えてあげられないのだから。
――だから。
勝手に進んでいたページ。頭に内容が入っているところ迄戻ったら、結局栞は元の位置から変わらなかった。溜息を吐いて本を閉じる。もう寝るしかなさそうだ。
誰の目もない一人だけの空間。焦がれていた筈なのに、手に入ったらもう何かが足りない。
***
次のデートは水族館だった。
「……」
――彼は楽しいのかしら?
間違いなく言えるが彼の趣味ではない。
……とも言えないか。人の多い場所に出るのを億劫がっているだけで、案外学術的な興味はあったのかもしれない。
ポケットに手を入れている。
ふと目が合うと、その手が伸びて指先が絡め取られた。微笑んでいる。
小魚が群を成して頭の上を横断し、エイが白い腹を見せて泳いで行く。水槽のゲートを手を繋いで歩いた。何だか不思議。こんないかにも恋人らしいデートを彼とするなんて。
インドア派というか出不精の彼と過ごすのは決まって互いの家だった。稀に私の都合で外出する時に彼が付いてくるという形はあったけど、彼の方から誘われたことは殆ど無い。
……デート、だから?
水族館には初めて来る。すれ違うのは家族連れや恋人達ばかり。道理で自分には縁が無かった筈だ。彼はどうだろう。館内図を見ることもなく手を引いて案内してくれる。
小さな男の子が走って来てぶつかり――そうになった時、腰を引き寄せて避けてくれた。身体の触れる距離が妙に恥ずかしかったのはいつもと違って人目があるからだろう。
母親と思しき女性が小走りで追いかけ、子供の腕を捉えて屈み叱っている。男の子は悪戯気な顔をして、でも捕まえられてどこか満足気だ。微笑ましい家族図。水族館という場所はきっとどこの家庭でも、一度は訪れるようなものなのだろう。
「霧崎君は、来たことあるの?」
「……ああ。葉那と来たかった」
優しく微笑む。
仄暗いトンネル状の空間の中、水底に差し込む光から照らされる顔は陰影を帯び、いつもより大人びて見えた。
「ありがとう……これ」
土産売り場で目を留めた、ぬいぐるみを抱えてお礼を言う。恥ずかしいから欲しそうな素振りも見せていなかった筈なのに、彼は迷わずそれを選び、購入していた。
「どういたしまして。こちらこそ付き合ってくれてありがとう」
「じゃあ……その、」
「ああ、お休み」
もう慣れてしまった。彼は期待する素振りもなく部屋を後にする。
その背を名残惜しく感じてしまう自分がいた。
外出して過ごす時間は、こんなに瞬く間だったなんて。
まるで思い描いていたような『デート』だ。
懐かしい胸のときめきを思い出す。
そう、誰もいない美術館を大人の男性と二人きりで歩いた、幼いあの日のように。非日常で幻影的で……触れれば消えてしまいそうなもどかしさ。
ソファにぱふ、と腰を下ろす。
おかしいわ……
白いアザラシのぬいぐるみを抱いて考える。
何か、彼の様子が以前と違う。様子というか、物腰が……随分大人びた。
無頓着だった服装も洗練されて、行く場所にも合わせて雰囲気を変えている。そしてどこか色気のある余裕めいた微笑は、
だけど――
――一方私ときたら、デートにしては随分地味な格好ね
造作なく髪を下ろしたまま、化粧もそこそこ、アクセサリーも付けず、服装も普段と変わりない。以前まで外出時はもっと気を使っていた筈なのに。
だって彼は気にしないし気付かない。自分だけするお洒落に待たせるのも気が引けて、だんだんおざなりになってしまっていた。なのに――
私に釣り合う?
気づかない訳はない。街で向けられる彼への視線。背が高く瞳は青く、何も繕わなくても俳優顔負けの存在感。通り過ぎた女性達のひそめく声。繋がれる手すら嫉妬混じりの視線を浴びている気がして、並んで歩くだけで気恥ずかしかった。
つくづく彼は、何も困っていないのだ。
家柄を気にするような
私なんかにこだわる必要はない
それに気付く時は来るだろう。
きゅ、とアザラシの顔を押しつぶした。
「霧崎君……」
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