第19話 ストレイ・キャット。

 手を引っ張って行ったベッドの上で、柔らかな愛撫を受ける。

 つむじからつま先迄……

 この時ばかりは普段のがさつさからは信じられないくらい、ガラス細工でも扱うかのように丁寧に触れる。

 固い男性的な手の心地はそれが際立って。

 さわられる程さわられたくなる。

 衣服がもどかしくなるくらいに。


「ん……」


 腰や内腿のあたりに触れられると声が漏れてしまい思わず身をよじった。

 やけにくすぐったくて肌がほてっていくような、たぶんこれが官能的な身体の反応。

 ――でも、彼は?

 情事というには奉仕的過ぎる。

 前戯というなら目的がない。

 どうして繰り返されるのか分からない。

 見返りもなく。

 

 ただただ与えられるだけだった。

 脚の看病から痴漢の心傷まで、ろくにお礼も言えていない。受け過ぎているのに一つだって返せていない。もうすぐ終わるのに――


「葉那……?」


 覗き込む顔は心配そうで、頬に添えられた指が離れた時には雫が一粒載っていた。ゆっくりと身を起こす。


「私もさわっていい?」


「え?」

 と詰まって彼に戸惑いの表情が浮かぶ。

「いいでしょ?」

 伸ばした手が、でも手首を抑えられて。

「何で」

「貴方だっていつも一方的じゃない。私もする方をしたいの」

 ――何でこんな言い方ばかり。

 彼は肩をすくめた。


「どうぞ。忍耐力を確かめたいなら」


 シャツに手を伸ばしてボタンを外す。

 脱がせて露わになった上体にひとりと手のひらをくっつけた。

 この先どうしたらいいか分からない

 それをぎこちなく左右にさすってみる。

「……」

 だめだ。

 硬い身体。同じ人間なのにまるで違う。

 細身に見えて筋肉がくっきりと線を描いている。内勤職だというのにどうしてこんなに鍛えられているんだろう?

 真次さんも――

 こんな時でも瞼の裏に浮かぶ面影に自己嫌悪する。ちらと上を窺ってみると彼は神妙な顔付きで見守っていた。

  

「目……つむっていて」


 指示の通り瞳を瞑った彼にちょっと落ち着きを取り戻した。

 ――私にできる訳ないんだわ。

 どうしてこんなことで返せると思ったのか。

 それも今更。

 別れ際に印象を良くしたいなんて虫が良い。

 

 諦めて、その体の隆起を指でなぞった。

 胸筋や腹筋、上腕二頭筋に……

 あとは名称は分からないけど

 色々なでこぼこ。

 この脇下の小さな三角は何?

 人体模型は目を背けたくなるけど、こういうモデルがあったら覚えられそう。


 そう言えば彼は医学を修めているから人体に明るいんだろうか?

 きっと筋肉や骨の付き方、関節の繋がり方、その辺を熟知しているからあんなに快感を感じさせられるんだ。それなら説明が付く。どこで覚えたか分からないような、愛撫の仕方。


「もう目、開けていいか?」


 彼が口をきく。

「……ええ」

 渋々了承した。

 何がしたかったんだ、と思われているだろう。予め視線を斜め下に逸らせておいた。

「……」

 沈黙する。

 だって、仕方ないじゃない。

 彼のことを好きな訳じゃないんだし。

 

「……キスは?」


 突然言う。

 意味が分からず顔を上げた。

 彼は真面目な顔で見返していて。


「一方的にするだろ。葉那もしていいぜ」


 ……そういうことじゃ、ないんだけどなあ。

 驚く程主旨を理解しない。

 何でも気が付くあの人と、どうしてここまで違うのか逆に不思議すら思う。

 でもまあ、適当に付き合う人としては楽でいいかもしれない。

 

「もう一度目を瞑って」  

 

 呆れ笑いをしながら肩に手を置いた。

 身を乗り出してキスをする。

 好きな形の唇に。

 重ねて離す。


 ついでにハグもした。

 また催促されかねないから。

 そしてシャツまで着せてあげた。

 きちんとボタンを嵌め直して。


「行ってらっしゃい、とか言われるのかな。なんか今すげぇ幸せな気分」


 能天気に笑っている。

「行くのは私でしょ」

 冗談に答えてあげると途端に顔を曇らせた。

「帰ってくる?」

「来ないわ。連続して同じ地への赴任はほぼないもの」

「さっき泣いてたよな。何で……?」

「貴方が期待するような理由じゃないわ」


 なお説明を求めるよう彼が黙って待つから、自分で釈明を付けてみる。


「ちょっと自分が不甲斐なかっただけよ。感傷的になり過ぎた。私も貴方に何かしてあげたいと思ったけれど――そもそも、助けてなんて言った覚えはないし」


 もう吹っ切れよう。嫌な女のまま別れた方がいい。


「まあちょっとした貸しにはしておくわ。日本に来る事があったら、日下家当主として何かしらの融通は利かせてあげる」


 日下家当主――きっともう、次に会う時はお互い何もかも変わった後だろう。

 家の繋がり上に呼ばれた時が再会だとしても、私は「完璧」に微笑みながら雛壇に拍手を送るに違いない。主役に水を差さない暗色のイブニング・ドレスに身を包んだ、そんな自分を想像して僅かに顎を上げた。意思と無関係の感情がまた流れ出てしまわないように。

 

「……葉那、何でもしてくれるって言ったよな。の時」


「ええ、いいわ。要求して」


 即答していた。それが何であれ応えられる――自分に、彼の望みを叶えてあげることができるなら。これ程真剣な眼差しに初めから気付いていれば、こんな関係を始めることも無かっただろう。偽りの関係で弄んだ、せめてもの贖罪に。


 揺れることの無いその瞳が自分を見つめて言う。


「俺とデートをしてほしい」







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