第12話 その朝。


「葉那さ……」


 朝食のトーストをかじりながら彼が低い声で言う。


「何よ」

 ややつっけんどんになって答える。

 顔を合わせる前に朝食を作って出て行こうと思っていたのに、彼は寝起きの目をこすりながら朝が早いとぼやいて当然のように席に着いたのだ。

 ――など何も無かったかのように、いつもと変わらぬ様子で朝食を食べ出した。


「いつからこっちにいる……?」


 低血圧らしくゆっくりとした動作と口調。

 朝が弱いのは真次さんと同じね。とちょっとだけ気持ちが緩む。


「アメリカでの赴任? つい数ヶ月前よ。来たばかりで貴方に会ったの」

「ふーん……いつまで?」

「さあ? 今回は特別だけど……普通は日本と各国2年置きに変わるわ」

「2年か……」


 というか父親も同じ職だというのにどれだけ興味が無かったのか。本当に真次さんが可哀想だわ。赴任先でも家族写真を持ち歩いていたくらいなのに。


「2年付き合ったらさ……俺と結婚してくれないか」 


 ――またこの人は。

 冷めた気分でコーヒーを淹れる。鼻孔をくすぐる良い香りが広がる。

「葉那……」

 懇願するような声が聞こえるが、誰が寝起きの男の夢見事に耳を貸すかしら。


「それって、日本に帰る前に結婚して仕事を辞めろ、ていう意味?」

「葉那と離れたくない」

「私、自分の仕事に誇りを持っているわ。女は簡単に仕事を捨てられると思っている人と家庭を持ちたくない」  

「……悪い」

「それに2年っていうのは普通の勤務で、私は臨時だからもしかしたら明日にでも勤務地が変更になるかもしれないわ」

「それって親父あいつに聞けば分かるのか?」

「やめなさい。もし私の異動に不自然があったら即貴方とは縁を切るから」

「しないって……」


 そもそも真次さんが決める事でもないけど、実際あの人はどうとでもしてしまえそうなのよね。仮にこの人と結婚なんて事になったら一族の見えない力が働くんじゃないかしら。


「じゃあ今結婚しないか?」

「バカな事言ってないで、コーヒーは飲むの? 私、そろそろ出るわよ」

「葉那がどこに赴任しても俺が付いて行く」

「貴方研究職でしょ? そんな短期間で雇ってもらえるところあるの? それにここが一番環境が整っているからここにいたんでしょう。結構見損なうわ、簡単に自分の仕事を投げ出す人って」

「……」


 彼は読めない表情で押し黙っている。


「まあ2年も経てば気持ちも変わるわ。忘れなさい」

「……そうだな、2年経ったら葉那も俺から離れられなくなっているかもしれないし」

「相変わらず傲慢ね。そんな訳ないじゃない」

「いや、昨日の感触だともっと早い。」

「ッ――馬鹿じゃないの?」


 唐突に持ち出すのでカップを持つ手が跳ねて彼のシャツに茶色の染みを作った。


「熱っ……――お前、コーヒーかけるってなんだよ……動揺し過ぎだろ」

うるさいわ」   


 冷ます必要も無くなって、席を立った。重要なことを思い出す。


「私の着信履歴、消しておいてよね」

「もう覚えたけど?」


 本当に、憎らしい。





〈第2章 恋人契約/了〉






       

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