第11話 彼の上書き。


「こうか?」

「うん……」


 壁を向いて、彼は後ろにいる。その手はお尻に添えられていた。


「変な気は起こさないでね……これは心理学で使われている方法なんだから。トラウマになりそうな記憶に似た別の状況を重ねて上書きをするっていう……」

「分かったから……嫌だったら言えよ」

「ええ。黙って言われた通りにしてね。こちらも恥ずかしいんだから」


 男の人の手はどうしてこんなに大きいのだろう。背丈も然程変わらなかった自分に比べて彼は随分と男らしい体付きになり、本当に取り残されたように変わってしまった。


「何度かお尻を撫でたら……下から持ち上げるように掴んで」

「そしたらスカートの中に……手を入れて」

「お前……気のせいかも、てさっきの嘘だろ」

「黙ってよ。後で聞くから」

「……」

「腿をなぞり上がって……何度か往復して」

「ストッキングの上から下着の際に触れて……爪を立てられて、終わり」

「終わり?」

「そこで電車が止まって人がいっぱい降りたの。それで押されて、後は空いて。凄く長い気がしたけど……短かったわね。一駅分もなかったのかしら。――どうしたの?」

「吐き気がした……」


 彼は頭を押さえている。


「何でお前黙ってたんだよ……もし人が降りなかったらこのまま続いてたかもしれないんだぜ」

うるさいわ、吐き気がしたのは私の方よ」 

「そうだな、悪い……」

「さあ、もう一度やり直しよ。今度は何も言わないからスムーズにしてね」

「了解……」

 

 電車の音……つり革。前の人の新聞記事。周囲の体臭。混じる酒気帯びた臭い。ざわめき。携帯を弄る音。イヤフォンからの音漏れ……見知らぬ手が体にいやらしく触れる嫌悪感。止まる電車、流れて行く人……終焉。


「よし」


 瞼を開ける。

「これで大丈夫……まだぎこちなかったけど脳内で補完したわ」

「本当に大丈夫か?」心配そうに訊いて来る。

「ええ、痴漢したのは霧崎君ね。最低」

「……そうなるのか」

「そうでしょ?」

「そうだな。すみませんでした」

「許せないわ。一発殴らせて頂戴」

「はい」

 彼が目を瞑る。襟を持った。


「やあっ」


 彼の体は宙に浮き、そして床にたたきつけられる。

「……ってぇ。お前、殴るって言っただろ。何で投げんの」

「合気道の基本は受け流すか、虚をつくかなの」

「ああ、そう……」

「まあよく頑張ったわ」

「ご褒美にキスさせてくれる?」

「あんまり気分じゃないわね……」

「――ああ」と何か気づいたように惜しそうな顔をした。

「どうしたの?」

「急いで出て来たから……コンタクト忘れた」

「今日は悪者なんだし、いいんじゃない?」

「そうか……まあ大人しく帰るか」

「泊まって行ったら?」

「いいのか?」

「でもね、私の家はベットが一つしかないの……それでいいなら」

「ソファで寝るから」

「夜は冷えるわ。毛布も一枚しかないんだし」

「つまり一緒に寝るって言ってるのか?」

「鋼の忍耐力なんでしょ?」

「やけに評価が上がって良かった。けど正直忍耐力は使わないに越した事はない」

「もう。じゃあ帰ってよ」

「いや、頑張る」

「信頼しているわ」


 何だか可愛げがあってくす、と笑っていた。

 一人になったらまた思い出してしまいそうだけど、彼がいてくれたら上書きできそうだ。投げられた時のしかめ面を思い出すと顔が弛む。決して仕返そうとはしない安心感を何処どこか彼に感じている。

 案外彼も変わらないのかもしれない。努力なんて人からは見えないのに成功だけやっかむ愚かさは自分がよく知っている筈だ。少なくとも今他に交際関係があるならば、確証もなく名前を呼んだりはしないだろう。


 ギブアンドテイクの関係――割り切ってしまえば意外と悪くないかもしれない。


 食べてみたかった大皿のシェアや映画の感想での笑い声。幸せそうな恋人達を横目にしても、自分には縁のないことだと思っていた。

 でも、将来なんてない今だけの関係――それを望んで良いのなら。束の間の恋人ごっこを楽しんでもいいのではないだろうか。彼にとっても都合が良い筈だ。理想の恋人代わりに、後腐れのない相手……お互い了承した関係なのだから。



 *



「葉那……」

「何?」

「その恰好でいつも寝ているのか?」

「いいえ、これは霧崎君にサービスしているだけ。お気に召さなかった?」


 下着の上にレースのキャミソールワンピースを被っただけの薄着姿。少しは女性として見てもらいたいなんて背伸びして見せたのは、これまで鏡の前の自分だけ。品行方正いい子じゃないお嬢様。こんな自分は誰にも望まれていないなんて知っているけれど、彼にはどう映るだろう。自分だけ翻弄されるのもちょっとしゃくだ。大人になったのは彼だけじゃない。


「いや……気持ちはありがたいけど、その、目のやり場に困るっていうか。というかそんな隙を与えてるとまた襲われるぜ」

「今日は身動きが取れなかっただけよ。電車くらいじゃないとああいう状況にはならないわ」

「で、こうしたら身動きは取れるのか?」


 手首を掴まれ片手で一つにまとめられる。


「ちょっと――離しなさいよ」


 内心焦るが彼は素直に手を離した。


「あのな、葉那……お前は確かに試合じゃ負けなしかもしれないけど、いざとなったらルールが守ってはくれない。もっと気を付けてほしい」

「霧崎君って最近私を馬鹿にしているわよね。何?その上から目線」

「まあ意外と純粋で子どもっぽいなとは思っている」

「私も、貴方って意外と軽くて相変わらず尊大だと思っているわ」

「けど、お前を知る度好きになる」

「ああ、そう……私は霧崎君の事なんか、全然好きじゃないけどね」

「でも痴漢を俺で塗り替えるってことは、俺ならそういう事されてもトラウマにならないって事だな?」

「そういう男の妄想、やめてくれる? 憎むべき相手がはっきりしていた方が精神が安定するっていうだけの話よ」

「なんだ、そうか……ちょっと期待した」

 彼が苦笑いする。

「痴漢ならね……」

「どういう意味だ?」

「別に」


 自分でも咄嗟に口を衝いて出た否定の意味が分からず目を逸らせるが、彼は特に気にした様子もない。

 

ちなみにもう一つアドバイスをすると、そういう下着みたいな格好で寝室に現れたら、小心者の男以外は誘われていると勘違いするぜ」


 更にまるで良心から諭すように言うからムッとしてしまい口が尖る。


「霧崎君は小心者だから大丈夫よ」

「倫理観に優れていると言ってくれ。流石に今日傷ついている彼女に対して理性を失う訳にはいかないだろ」

じゃないわ」

「そういうことになってんの」

「でも私、もっとしてほしいのだけど」

「何を?」

「もっといやらしい事」

「――やっぱり病院に行こう」 

「失礼ね。論理的な思考よ。さっきので大分忘れられそうだけど……でも、やっぱり未だ気持ち悪いの。自分の意思じゃないところで性的な経験をした事が凄く悔しい。だからでも恋人と、自分の意思でもっと刺激的な事をして、脳にあれは大した事じゃないって思わせたいの。そうでないと、多分無意識にでも男性恐怖症になるわ……」


「それで、どこまでしていいんだ?」


「貴方って本当にむかつくわね。ほとんど今の聞き流していたでしょ」

「お前の事は本当に大事にしたいと思っているから、理性が優勢なうちに前提を立てないと」

「下着は付けたままで……あと痛いのと変なことと私が嫌がること全般がダメ。――今あからさまに残念そうにしたわね。一体何をしようとしてたの?」

「いや、別に……ただお前の許可範囲が著しく狭い気がして。下手したら俺に触られるのは嫌だとか言い出すだろ」

「そこは我慢するわ」

「お前な……」

「冗談よ。……貴方に触られても、嫌じゃなかったわ」

「――今のはかなり嬉しいな。分かった、お前の処女は全力で守る」

「未経験だなんて言ってないでしょ。あまり舐めないでもらえるかしら」

「そこを強がるには遅過ぎるぜ」

 キャミソールがたくし上げられた。

「きゃ……やだ、デリカシーは持ってよ。照明も消して」

「いーけど」

 明かりが落ちて暗闇に移る間際


「ご褒美の主導権は俺が貰う」


 くすりと微笑わらう、新しい表情を見た。 

 


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