第10話 痴漢の手。


 空を見上げる。

 もう真っ暗。


 時計の針は午前近くを差している。

 コツコツと反響する音を訊きながら街路を歩くがタクシーは捕まらない。仕方ないけど、地下鉄を使うしかなさそうね。

 この時間帯、混み合いそうで本当に嫌なんだけど……


 以前なら、ああ、そうだ。真次しんじさんが毎晩送ってくれた。一人で帰すのは心配だからと言って。二人きりで話す時間はいつも一瞬で過ぎてしまって、真次さんも同じ気持ちでわざわざ送ってくれるんじゃないかなんて淡い期待でどきどきしていた。

 いつも星空が奇麗だった気がする。空気がとても澄んで……

 心配だなんて、何か起こる訳ないのに。


 つり革に捕まって揺れながら、思い出すと幸せな気分に浸れる。

 真次さん……

 つくんと心臓が針を刺されたように痛む。


『息子を頼む……』


 どうしてこんなことになってしまったのだろう。

 どうかしていた。彼もどうかしている。

 自分の父親に抱かれたいなんてことを言い出す女を受け入れるなんて、正気じゃない。

 諦めるだろうし、受け入れるなら軽蔑できる。どちらにせよ優位な交渉――

  

 の筈だった……。

 同窓会の日以降ずっと彼には連絡を取っていない。じゃない、未だ一週間だ。

 どうしても彼を前にすると学生時代の延長のような子供じみた態度を取ってしまう。ところが彼はどうだろう。食ってかかるようなことはない。もう、昔の彼ではないのだ。

 『女性の扱いエスコートが下手』なのは経験がないからじゃない。そんなことをしなくても困らないからだ。「初めてのキス」なんて幼稚な言葉にさぞ面食らっただろう。


 彼に会いたくない。

 名前呼びも甘いキスも全部嫌だ。愛してるなんて、聞きたくない。

 欲しいものを与えられ欲しいままに消費される、都合の良い相手になりたくない。

 ――なんて我儘だ。持ちかけたのは自分だろう。

 ただ彼がああも軽薄になっていたことも、それに自分が翻弄されることも予想外だった。

 約束は守るにしてもとにかく彼とは冷静に付き合わないと……

 ……何か、さっきから妙な……

 はっとした。はっとすると、同時にぞわりと背筋が粟立つ。


 痴漢……?


 誰かに、誰かの手が……冷静になって。ううん、でもこれは確かに故意な触り方……やだ……

 どうして誰も気がつかないの?気づいているの?こんな、堂々と……

 手が大きい……男の人の手……怖い……人が多くて身動きが取れない……

 やだ……誰か

 真次さん――



 部屋について電気も点けずにぺたりと座り込んだ。


 どうやって帰って来たか覚えていない。人が一気に出て行った駅で止んで、でも振り返る事もできずただ何も考えないよう唇を噛んで俯いていた。夢だったと思いたい。そうにしては未だ生々しい感覚が残ってしまっている。

「ふ……っう……」

 ぽろっと溢れる。

 こんな筈ない。

 こんなに弱い筈が。

 怖い

       誰か

 震える手で鞄から携帯電話を取り出す。青白く光るディスプレイ。表示される最近登録した番号。

 ――霧崎夭輔――

 何を見つめているんだろう。

 頼ろうだなんて自分も大概都合が良い。

 第一日付ももう変わっているし彼にだって迷惑だ。

 カタ、と音がしてびくっと震える。

 違う、何かが倒れただけ……だけど動けない。

 


 ――プルル、プルル、と電子的な呼び出し音が暗闇に響く。



Helloはい?』


 知っている人の声がした。半分寝ぼけたような。

「……」何て言えばいいのだろう。言葉が出ない。

『葉那……?』  

「霧崎君……」

『――どこだ?』

「ビーコンヒル通り……三丁目のマンション……507」

『すぐ行く』


 プツ、と切れてあ、と思わず声が漏れる。すぐ切らなくてもいいのに……。 

 というか今、来るって……何で……何も言ってないのに。名前だって……。


「とにかく立たなきゃ……」


 携帯電話を手に立ち上がる。部屋の灯りを点けた。いつも通りの風景にほっとする自分が可笑しい。バカね。今度は泥棒にでも入られたとでも思っていたのかしら。たかが痴漢で……

 急に恥ずかしくなってきた。

 世の中に、どれだけの女性が痴漢に遭っているのか。女子高生だって遭うって言うわ。それを社会人の私があんなに怯えて……どうしよう。霧崎君が来たらなんて言えばいいんだろう。こんなことで呼び出すなんて、臆病な女だと思われたくない。 


 取りあえず、温かい飲み物を用意しよう。


 

 ***

 


 ピンポン、とチャイムは本当にすぐ、15分くらいで鳴った。そんなに近くない筈だけど。

 でもインターホンに映っているのは確かに彼で、ロックを外す。

 

「葉那……!」


 息が切れていて、ちょっと面食らう。顔も青ざめていた。

「どうしたの……? 上がって」

 私を見つめると心なしほっとしたように息を長く吐いて呼吸を整え、部屋に上がった。


「ごめんね、こんな時間に呼び出して」

「どうしたんだ?」


 彼の前にココアの入ったカップを置いて自分も座る。


「ん……貴方の顔が見たくなって、て言っても信じないかしら」

「信じない」


 冗談ぽく笑ってごまかそうとしたけど彼は意外に真剣な眼差しで見返して来る。


「声が震えていた……何かあったんだろ?」

「本当に、何でもないのよ……ちょっと、ネズミがいたから驚いちゃった」

「ネズミ……?」

「お洒落で気に入ってるけど、結構レトロな建物だから。明日管理人に言ってみようかしら」


 疑われているのが分かるけど、もう追求されたくなかった。  


「ネズミって言えば……アメリカのディズニーランドには未だ行った事ないのよね。今度一緒に行ってみない?」

「……」彼は難しい顔をして黙っている。

「ああ、貴方ってそういう場所得意じゃなさそうよね。まあ、私も人混みって苦手――」


 思わず先程の事が記憶に甦って言葉が途切れる……のを誤摩化して。


「そういえば美味しいクッキーがあるわ」


 顔を見られたくなくて立ち上がった。

 だけどぐい、と引き戻されてソファに沈む。


「ちょっと、やめてよ。私、貴方のそういう乱暴なところ苦手……」

「葉那が俺をデートに誘うなんて、絶対におかしい」

「そう? じゃあもう誘わないように気を付けるわ」


 肩をすくめて答えた。なのに手が伸びて頬に添えらえる。真っ直ぐ見つめる彼の視線を外せない。


「話してくれないと帰れない」

「だから……何でもないって……」

「涙の跡、ストッキングの伝線――心配しないなんて無理だ」

 はっとしてストッキングを見る。

「やだ……どこで引っ掛けて」

「葉那」


 まるで大人が子どもを諭すように見つめて来る。諦めて小さく溜め息を吐いた。


地下鉄サブウェイで痴漢にあったの。それだけ」

「痴漢って……警察には?」

 途端に顔を険しくする。少し怖い。

「大した事じゃないわ。気のせいだったのかもしれないし」

「大した事なくないだろ。どういう奴だ」

「顔は見てないの……お願い、怒らないで」

「……悪い」


 身を乗り出していた彼を押すと、罰が悪そうに上体を引いた。


「あまり電車を使ったことがないから少し動揺しちゃった。でも今は落ち着いたわ」  

「電車にはもう絶対乗るな」

「そうね、私も車を買うわ」

「俺が送るから」

「嫌よ」

我侭わがまま言うなって……」

「貴方が危ないかもしれないじゃない。貴方だって男性なんだし」

「俺のどこを見てそう言ってるんだ? 忍耐力の塊だろ」

「知らないわよ」


 彼は大きく溜め息を吐く。それからちょっと顔を崩して口元をゆるめた。


「とにかく……俺を呼んでくれて、ありがとう」


 その表情につられて張り詰めていた気が弛む自分がいた。


「……お願いがあるんだけど」






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