第9話 甘味と苦味。
「じゃあねー、お二人とも。付き合ってくれてありがとう。葉那ちゃん、寂しいからたまには連絡してねー」
「夭輔、お前何かあっても連絡しないと思うから……せめて返信くらいしろよ」
二人がタクシーに乗るのを見送って、自分も手を上げる。と、彼がさも当然のように乗り込んで来た。
「ちょっと、降りてよ」
それどころか構わず自分の住所を告げ、タクシーは発進した。不機嫌になりながらも黙って窓の外を眺める。まあ別に途中迄乗り合わせるくらいでごねても仕方ないし。
「葉那、ビーフシチューを作ってみた。味見して行ってくれないか」
「さっき食べたばかりで入らないわ。悪いけどまた」
「じゃあ連絡先を教えてくれ」
「嫌よ」
「……二週間連絡がなかった」
「だって特に用もないし。料理だってそんなに早くできるようになったら苦労しないわ」
「練習したから、一口だけ」
ふう、と溜め息を吐く。
「仕方ないわね……」
*
「ダメね」
ひとくち口に運んだスプーンを置いて告げる。
「もう少しお店で味を覚えたら?」
「そうか……」
「まあそう落ち込まないで。私の舌を満足させるのが難しいというだけで、普通の子なら普通に喜ぶと思うわ」
「俺はお前に喜んでほしい」
「そう。まあ、何を頑張るかは本人の自由よね。ご馳走様」
席を立って鞄を取り上げた。
「もう帰るのか?」
「明日早いの」
「じゃあ、おやすみ――」
彼が腰を折ってかがみ、蒼い瞳が目の前に近づく。
パシンっ
思わず頬を叩いていた。気まずい間が流れる。
「ごめんなさい。いきなりだったから……久しぶりだし」
流石に今のは自分がいけないと思って目を伏せる。同時に少し、何で謝らないといけないのかしらと思いながら。
「――忘れてた。コンタクトしてくる」
「……ふ」
ビーフシチューの焦げた苦味が拭い取られる。代わりに感じる甘味はなんだろう。
ソファに掛けて口付けられて。
こうしている時はなんだか甘い気持ちになる。大きな手が頭を支えていて、私も髪をくしゃりと掴む。少し癖のある黒い髪。カラーコンタクトレンズを入れた瞳は黒く、顔はとてもハンサムだ。
「ん……」
ざらざらした舌、頭が痺れていく。一体何度目のキスなのかしら。初めの時より随分心地よくなった気がする。これ以上したらきっといけない。私は彼に付き合っているだけなのに。
「もう……これで」顔を離して、濡れた唇をハンカチで押さえる。
「今日は遅いし……泊まっていけよ。朝送るから」
「でもタクシーが」
すぐ帰るつもりで待たせている――という断り文句に関わらず彼は「言って来る」と腰を上げる。待って、と引き留めて振り返った目と目が合った瞬間逸らしてしまった。
「……チップ……多めに渡してあげて」
財布から紙幣を取り出して、顔を背けたまま押し付ける。ああ、と押し返して彼は出て行った。
途端にシンとした部屋。
何で負けちゃったんだろう。私、結構押しに弱いのかしら。いつもの自分じゃないように心拍数が上がってしまうのは、きっと経験がないせいだ。――霧崎君にドキドキするなんて。
ガチャ、という音に思わず肩が跳ねる。彼が戻って来ていた。ちょっと顔が赤い気がする。
「どうしたの?」
「いや、別に……。ここの奴らのジョークには慣れねぇ」
何を言われたのかしら。
「霧崎君、それじゃあ悪いけどシャワーを借りるわ」
「ああ」と彼は頷いて、グラスと、もう冷めたシチューを片付け始める。思わず「あ、」と声を出していた。
「それ……やっぱり食べるわ。少しお腹が空いてるの」
「ん」彼は嬉しそうに笑った。
「仕事が終わって……さっきもあんまり食べてなかったから……だから、これはなしよ。お腹が空いてたら美味しいのは当然だもの」
温め直されたビーフシチューを口に運びながら言い訳する。ああ、と相打つ彼はいつもの無表情には珍しく、心なし微笑みを浮かべてじっと見守っていた。
「あんまり見ないでよ……貴方は食べないの?」
「葉那が食べているのを見ているだけでいい」
「気が散るから見ないでほしいわ」
「俺の事意識し過ぎ」
「ねぇ、自惚れないで……もう来ないわよ」
「冗談だって」
笑った。やっぱりいつもより笑っている気がする。二週間も空いたから、気のせいかしら?
*
シャワーを浴びて、髪を乾かして、またソファーに座っている。隣には彼がいる。お互い何をすることもない。ただ隣に居るだけ。
自分の部屋だって、そうよ。お風呂上がりに初めに座った場所って中々立ち上がれなくなる。そこに自分の体温が移っちゃうから。
すぐ頭越しに聞こえて来る心拍数が眠りに誘うような心地よさで、これは人間工学的に証明されている事実だ。だから決して、彼に安心感を覚えるとかではない。
「今日は失敗した」と彼が呟いた。
「コンタクト、初めから付けておけばよかった……」
頭を撫でられながらうとうとと
この声質もそう。倦怠げでも無愛想でもない、落ち着いた優しい声音はあの人のようだ。こんなに近くに聞こえる。ずっとこんな風に撫でられたかった。
「同窓会で付けていたら……変でしょ」
「今迄がコンタクトだったって言えばいい」
「無理あるわね……でも……そうだったらいいのに……」
「俺も初めてだよ。目の事を気にしたのは」
「そう……目立っていたのにね」
「……母親は、確かに抜けてるけど苦労してきてない訳じゃないんだ」
「――そろそろベッドで寝るわ」
呟くように変わらないトーンだったのに何故か頭に冷水が注がれたように急に目が覚めた。立ち上がると同時に乗っていた彼の手が落ちてそれまでの重さに気が付く。困惑気な視線に追われて目を背けた。そんな顔は、しない。
「葉那……」
「分かっているわ。貴方のお母様、天使みたいな人よね」
部屋に入りベットに沈み込む。冷たいシーツとカバーの間に滑り込み背を丸めた。
分かっているわ。
――葉那ちゃん。
初対面でぎゅっと抱きしめられた、包み込む様な柔らかさと無邪気な笑顔。何も疑う事を知らない無垢な天使。そのまま羽を生やして西洋画のモチーフになりそうな、輝く銀髪と純真な蒼い瞳。
私は絶対に、根本的に、誰にも――あの人には勝てない。どんな美人だってあの人と並べばくすんで汚れた罪深い人間に過ぎない。
選ばれるのは、ああいう人。
幸せになれるのは幸せにできる人。少なくとも誰かの「代わり」を押し付けるような人間じゃない。
一体何を
そうして欲しいと言った訳ではない。
確かに瞳が嫌いだとは言った。でも彼にとってそうまでする必要がどこにあるのだろう。
思えば学生時代からの朴訥な雰囲気とは裏腹に、手慣れたキス。
――きっと何も労さず手に入れてきたのだろう。全部。
ここはアメリカだ。複数の女性と同時に関係を持っていたとしても咎められることじゃない。
余ったベッドに顔を押し付ける。
この関係もきっと彼の遍歴の一つに過ぎない。
真に受ければ傷付くことは目に見えている。二回もなんて。
――しっかりしなさい、日下葉那。
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