第7話 約束

 ホテルの一室、彼女は気怠げな様子で窓脇のソファに腰掛けていた。ウィスキーをストレートで飲み出すのを止められなかった。大して強くもないのに度数が高いものを選ぶからすぐに酔う。

 毒でも呷るようにゴクリと飲み込んで。


「いいわ、」


 と言って自分を見据えた。

「約束よ。私の事、犯して構わないわ」

「犯すって……」困惑して眉を顰める。

「別に――前にお前が、酔ったらホテルで休むって言ってたからで、そんなつもりはない」

「そう。……貴方って、優しいのね」


 彼女ははらりと羽織っていた上着を脱ぐ。

 体に沿うサテンのドレスを身に着けていた。丈は膝上までしかない。


「私にとっては結構挑戦だったんだけど……こういうの、似合わないかしら?」

「いや……可愛いと思う」目を逸らして言った。


 学生の頃から大人びていたので、再会しても殆ど時が止まったように姿が変わらないと思っていた。ストレートの黒髪に色白の肌、アーモンド型で黒目がちの瞳。しなやかで品があり、誰にも懐かない血統猫みたいな。

 俺にとっての『絵に描いたような』お嬢様と言えば目の前の彼女を思い浮かべた。肖像画の小公女のように不変で、俗な事とは無縁な――


 それが体付きの微妙な変化があらわれただけで、瞬く間に時の経過を思い知った。腰のくびれが際立たせる、形良くツンと上がった尻や胸の柔らかそうな膨らみ。


 どこかで、あの父親が子ほども歳の離れた小娘を相手にする筈がないと高を括っていた。でも今は、何故今になって彼女を遠ざけたのか分かる気がした。

 ――予知能力でも持っているみたいに、は未然に躱す奴だから。


「ねぇ霧崎君、こっちに来て」 


 隣に腰掛けると彼女は長いまつ毛を伏せて指で顔に触れる。眉、目、鼻、唇、顎……とつくりをなぞって。


「こうすると本当に似ているわ……」


 その手を抑えて止めると、目蓋を開く。たったそれだけなのに、その瞳が自分を映しているのを見て胸が高鳴った。


「真次さんの代わりになってくれるって、言ったわよね?」彼女は囁く。


「ん……」

「それって、どういう意味?」

「あいつの次で構わない。……俺はあいつには、なれないから」

「それじゃ、困るわ。真次さんになってほしいもの」


 彼女はまるで甘えるように、胸に顔を擦り寄せて来た。

 酔っているからだろうか? 傷心しているからかもしれない。今迄にない彼女の様子の変化に、自分の鼓動がイヤに早いのは分かっていた。きっと彼女にも聴こえているだろう。その上で『相手に』されていないのは分かっている。それでも――傍にいていいなら


「俺ができることなら」


「ちょっと待ってね」 

 彼女は立ち上がり、戻ってきた時にはアメニティを手にしていた。櫛を取り出すと髪に通される。頭を撫でられているような気恥ずかしさがあった。くせ毛は分かっていたが、正直余り気にしたことは無かった。


「真次さんの髪はいつも櫛通されているわ。貴方はどうしてお洒落に無頓着なの? 隣で歩いていると恥ずかしいわ」 

「そうか?」と苦笑いする。 

「葉那はいつも奇麗にしているからな」

「身だしなみの範疇よ」


 今度は手首を持ち上げて匂いを確認するように顔が近づく。その唇が触れそうな距離に逐一脈が速くなった。


「真次さんはコロンを使っているわ……とてもセクシーで、落ち着く香りがするの」

「スーツや靴はイタリアのオーダーメイドで、時計はドイツ製」

「好きな紅茶はアールグレイで、煙草の銘柄は――」


 彼女は歌うように口遊くちずさむ。


「煙草?――は吸わないと思うが」

「家族の前では吸わないって言ってたわ……お母様には内緒ね」


「私、貴方の瞳の色嫌い」


 じっと見つめて彼女は言う。この突き放すような視線は昔からだが、今聞く『嫌い』が胸に刺さるのは、俺だけの変化なのだろう。


「真次さんを奪った人の瞳だもの。潰したくなるわ……」

「私、貴方のお母様大嫌い。媚びてて、無能力で、従順で、――ペットみたい」


「今日は葉那が正直だな……」

「私の事、腹黒いって言ってたわよね。どう? 正直に話したらもっと嫌な女でしょ」

「確かに……」


 酷い事を言っているのだろう。でもこれまで、幾ら態度がキツくても人を貶めたり悪口を言ったりするような事は決して無かった。態度のキツさにしても、罵詈雑言を浴びせるような事は――俺に対してだけだった。

 これまでただただいとわしかったそれが、唯一彼女の『完璧』でない姿、自分で分かっているだろう醜い心内こころうちを開いてくれるようで、そちらの嬉しさがまさってしまう。「好きな人」には決して見せないものだとしても。


「――でも嬉しい。お前が腹を割ってくれて」


 彼女は受け入れられようとられまいと構わないというように、何も言わず首に腕を絡ませた。下から見上げて。


「さあ、言ってみて。真次さんの煙草の銘柄は?」

「……何だっけ」

「駄目よ」


 密やかな吐息は酒気帯びて、瞳は夢見るようにトロンとしている。


「ちゃんと一度で覚えなさい……。ご褒美にはキスしてあげるんだから」


 言葉だろうか。彼女の発する音の響き、明瞭な発音、そのリズム、声を音楽のように聴いていた。何を言っていたとしてもずっと聴いていたかった。  

 


「お洒落で……洗練された男性と付き合いたいわ。そしたらお父様とお母様にも紹介できる。パーティにも同伴してね」


「車もこだわってね、いつも出迎えが黄色いタクシーなんて嫌だわ」


「今度オペラに連れて行ってあげるわ……気に入ってくれるといいんだけど」


「私、不安だわ。貴方とは趣味や価値観が違い過ぎるもの。貴方は私が男性に求めている事も知らないで、好きだから付き合いたいなんて言う……。そんなに単純な話じゃないのに」 


「私と付き合うのはきっと難しいわ。上流階級の限られた人だって。私の前で弱みなんてみせないで。いつでも微笑んでエスコートして、私を輝かせて。我がままね。だから私は一人でいいの。どこにもいない理想の人を追い求めたって悲しくないわ」 



 正面を向き合っているのにどこか遠くを見る彼女の表情。夢見がちで夢だと分かっている孤独な表情。きっと今、現実から逃げるように夢の中にいるのだろう。そうでなければ吐露する筈がない。弱みも隙も誰にも見せず、誰からの否定も一切遠ざけてきた彼女が。

 ――どこにもいない。

 子供から大人になるまで変わらず、変わらざるを得なかった、夢になった夢だろう。

 ずっと、大人の振りをしているだけなのだ。


「葉那のそういう、子どもみたいな夢を見てる表情かおは好きだ」


 気を緩めた、少女のあどけなさの残る顔。

 の、『夢』を追いかける一心な瞳――

 潤んで頬の紅潮した、真っ直ぐな熱い想い。

 

 決して叶うことのない夢を

 叶えてあげられたら

 あの瞳が自分に向くことがあれば

 そうしたら必ず

 

「私を馬鹿にするのね、霧崎君。いいわ、貴方じゃなくたって……」

「俺と付き合うと約束した」

「振っちゃいけないなんて、約束はしてないからね……」

「ああ……気を付ける」


 すやすやと寝息が聞こえて、彼女を暫く眺めそれからベットに寝かせた。



「おやすみ」



 グラスに残った琥珀色の液体を飲み干した。

 小さな悪魔との契約に

 乾杯。






〈第1章 セカンド・コンタクト/了〉










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