First contact#1:霧崎夭輔

 日本の中高一貫制校の、中等部に籍を置いた。

 部活動というものに入るのは全生徒が必須であるというので、ちら、と掲示板に張り出されたチラシ群を見て、決めた。

 剣道部。

 カタナには少し、憧れていた。



霧崎きりさき君、今日、日直よ」


 部活動に出ようとすると、後ろの席の女がぱさりと机に日誌なるものを置いて言う。あと黒板を消して先生からプリントを受け取って来てね、と付け加えて。女は筒を背負いさっさと教室を出て行こうとする。


「お前は」

「あら、気づいていなかったのなら仕方ないけど、今迄の時間全て私がひとりで当番の仕事をしていたわ」

「……悪い」


 だったら初めに言えよ。ち、と舌打つ。

 早いところ終わらせようと日誌を開いていると、ふと視線を感じて目を上げた。

 女がじっと顔を見つめていた。


「何だよ」

「別に」

「……」


 それくらいでどうということもないが、父親の母国日本に帰ってからこういう視線には辟易していた。母親譲りの碧眼を、訊かれても訊かれなくても、答えなかった。

 見て分かるだろ。別に好きで混血ハーフな訳じゃない。


 日直を終わらせて体育館に向かっていると、弓道場と、丁度あの女が見えた。びいんと放った矢が数十m先の的に当たる。へえ、と思ったがあれ以上何になるのだろう、とも思った。

 あんな決まった場所で決まった距離を決まった的に当てて、そんな事に延々と練習したらきっと百発百中くらい何人も出るだろう。そうしたら勝敗はどのように決めるのか。

――まあ、関係ないが。と足を急いだ。


 めえん、めえん、めえんんん、


 と剣技場は掛け声に満ちている。部活動とやらは意外と楽しい。眼の色も初め監督にからかわれたくらいで、後は部活動員の誰も取り立てて言う事もなくなった。

 練習が終わってからも一人何度も竹刀を振り下ろす。対人になると悉く打ち損じる。何がいけないのか。あと一歩早く振り下ろせていたら……


「何度振っても、無駄ね」


 しんとした道場に声が響いて、振り返ると女がいた。日直の女だ。


「……道場に勝手にあがるな」


 無視して、女は近づいて来る。何なんだ、この女。

 いつも奇妙な視線を感じる。ふいに視線を感じて向くと、女はしかし向いてなくて気のせいかと思う。自意識過剰……かと思ったが、そうではないだろう、と今確信した。


「全くなっていない。武芸者の恥よ。見ていられないわ」


 女は冷たく言い放つと、ぱしり、と竹刀で篭手を打った。

「は……?」

「違う」

 女は言って、次々と体の各所を打って行った。道着を着ているので痛くはない……とか言う問題ではない。

「おい」

「動かないで」

「――何なんだよ、お前は」

「何でもないわ」

「じゃあ出て行け」

「そういう訳には行かないのよ……してしまったから」

「……?」訳が分からず眉を顰めた。


 と、女が竹刀を持つのを止め手で身体の位置をただし始めた。足の歩幅間隔、膝の余裕、肘の位置、背の姿勢……


「なんなんだよ、てめぇ……」

「武道の基本は皆同じよ」

「武道? ――弓道は動かないだろ」


 冷たい眼のまま見返される。


「言っておくけれど、貴方は私に勝てないし、剣道をしたこともない私と剣道で戦っても勝てない」


 流石に面倒を越えて練習の邪魔に苛立ってきた。


「意味の分からない挑発だな」

「あら、やってみる?」


 視線が交錯する。

 ――こんな高慢な女は見た事がない。

 だが感情を逃し、はあと深くため息を吐いた。


「いいからお前……もうあっちに行け」

「いいわ……但し、賭けましょう」

 女は勝手に言って、竹刀を拾う。

「負けた方は、勝った方の言う事を何でも一つ聞く事」

「するかよ」

「外人さんに、武芸は難しいかしら」

 ――こいつ。

 神経を逆撫でる方法を観察でもしてきたのか。

「さあ。やるの、やらないの?」

「……」

 ち、と竹刀を持つ。



 パン、



 一瞬だった。

「――?」

 傍に落ちている竹刀を見下ろす。懐に飛び込んで上段から振り下ろし、竹刀を打ち落とすつもりだった。だが竹刀を持っていないのは自分で、視界がずれたように斜め後ろに女がいた。打下ろした先には誰もいなかった。


「分かったかしら? 外国の方に多いのだけどパワーとかスピードとか、実戦とか……力任せで勝ちたいなら真似事をするべきじゃないわ。武道は弱さから始まるんだから……」

 女は振り返ると、流し目でくすりと微笑した。

「ねえ? さん」 

「……てめぇ」

 睨みつける、と瞬間身体が宙に浮いて、ばん、と床板に身体が叩き付けられていた。

「――つ」

「あら、ごめんなさい。剣道って受け身も教わらないのね」

 くすくすと笑う女。起き上がろうとすると、首の付け根が踏みつけられる。

「……!」

「起き上がれないでしょ?」


 女はそう力を込めている訳でもなさそうで、痛みもなく、ただ押さえつけられているだけなのに――起き上がる事ができない。見上げた足の先には制服のスカートがあり、目を逸らす。

 見下ろしたまま微笑して女は漸く脚を退けた。


「さあ、従ってもらうわよ――霧崎……夭輔ようすけ君?」 





 

「……」

「……」

「……」

「……」

「……」


 ただ独り、道場でただ静止していた。

 竹刀を中段に構え視線は一点を見、一歩も動かずただ静止していた。


『今の状態を明日の朝まで寸分も動かさず維持する事。視線もよ。呼吸と瞬きだけは許可するわ』 


 女は自分を基本の体形に静止させてあれこれ微妙に足を引かせたり背筋や首の位置を指示すると、最後にそう言い残して道場を出て行った。

 視線も動かせないので時間は計れなかったが、呼吸の数から数えてみて十分も経ったところ、未だ十分しか経っていない事に途方もなく感じた。もし女の言う事を馬鹿正直に従うなら、1時間すらそんな事ができるだろうか。『動けない』という事自体の拷問具だってあるのに、自分の意思のみで指一本も『動かさない』ことが。


 軽い筈の竹刀の先端が、じわじわと錘を増すように重くなる。やや猫足立ちの足裏が吊りかけ、膝が痙攣する。


 しかしその『約束』を破る事は、取り返しのつかない敗北である事を直感していた。もしこれに負けたら、この先の人生を敗北者であり続けるような。 

 一体なんだというんだ、この緊張感は。

 目を瞑ることも背ける事もできない時間。

 訳も分からないまま、自分の一生が懸かっていた。



「……」

「……」

「…………」



 朝日が差し込む。

 ただ自分の心拍数と呼吸だけがあった。

 目は見えているのに、何も見ていない。

 自分と周囲との境界線が、くっきりと太い線になる。

 腕、脚、胴 という部位ではない

 肌、筋肉、骨 その細胞一つ一つが

 動かせず、動かせるもの――



 ばしん!

 


 何かが勢い良く背に当たり、転がった。

 それでも動くことはなかった。


「今、剣先が指一本は揺れたかしら?」


 涼やかな音が道場に響く。

 それは音で、声として聞こえていなかった。


「――まあ、及第点ね。ご機嫌よう」


 最早体が、自分から離れたように動かすことができないでいることに気づく。女は構いもせず、くるりと踵を返して離れて行った。

 そして気が付いた。

 この女には足音がない。床板を伝わって来る筈の振動が、感じられなかった。


 女の気配が消えて、崩れるように膝をつき床に仰向けに倒れた。もう身体が動かない。一歩も動いていないというのに、これほどの疲労を感じたのは初めてだった。

 春先の芯が冷える様な夜を越して、薄闇の中差し込む日の光に暖かさを感じた。横に転がる水のペットボトルを見つけて、からからの喉を潤した。

 

 周囲を明かりが充す頃、漸く歩けるまで回復した固い身体を引きずるようにして教室まで歩いた。扉の前で息を吐く。

 着席時、後ろの女は以前と同じようにつんとまるで何にも興味が無いといった顔をしていた。これまでその存在を意識したことは無かったが、今はいつ後ろから刺されるか分からない気配を常に感じる。


 どういうことか知らないが、この女は俺に明らかな敵意を向けている。

 、だ。それとなく避けるとか倦厭けんえんするとかではなく、突き刺すように真直ぐな。


 その次の日の放課後、おい、と声をかけた。

 女は聞こえもしなかったように歩いて行く。


「お前――何なんだ」


 やや混乱していた。

 あの日の「拷問」は、彼女に弓道を動かないだろと言った台詞への当てつけだと思っていたが………その日の部活、一睡もしていない疲労に関わらず撃ち込みの精度は格段に増していた。打つ時も打たれる時も思う通りに身体が動く。一体一晩でどんな猛特訓をしたんだと驚かれたが、。自身に何が起きたのか分からない。

 ただ、何かあったとすれば――

 女を見る。何の目的でこいつは道場に来たのか。


「貴方に名乗る必要ってあるのかしら? 『霧崎夭輔きりさき ようすけ』君」


 女はくすりと微笑してそのまま背を向けた。

 名前なら分かっている。そうではなく、何故俺に敵意を向けるのか――。


 そしてそれは、本当に敵意なのか。




  了.













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