第5話 優位な交渉。
タクシーで対向車が過ぎて行く夜の灯りを見る。
特に会話もなく部屋に着きとさりとソファに身を預けると、水を入れたコップが前に置かれた。
「つまらない人……」
「不合格か?」
残念そうに苦笑いして隣に座る。
「真次さんならきっと、近くのホテルで少し休ませてくれたわ。ここは照明が明る過ぎて、目眩がするもの……」
彼は立ち上がり照明を落とした。
窓の外にビル群の夜景が見下ろせる。
「今日……葉那は楽しくなかったか?」
手が握られていた。だから何でそう……
「逆に何で貴方が楽しかったのか謎だわ。私たち、特に何も話してないじゃない?」
「さあ……。何か、目で追ってる」
「貴方多分、『彼女』が欲しい年頃なんだと思うわ。誰か大学の友達に紹介して貰ったら? 流行の映画を観たり、雑誌に紹介されたケーキ屋に行ったり……それで喜ぶ女の子の方がいいんじゃないかしら」
「お前は何で喜ぶ?」
「休日はパリでオペラを鑑賞して老舗チョコレート店のカフェでゆっくり過ごすかしら」
「旅行に行くか」
「旅行じゃないのよ」くす、と微笑う。
「まあ感覚の違いなのかしら……価値観の差って埋まらないと思うわ」
「他で埋めればいいだろ」
唇を奪われた。軽く触れて離される。
「貴方って乱暴ね」
「……お前の気持ちが分からない」
「どうして?」
「キスしても嫌がらない」
「程々に嫌よ……でもね、もうくだらないのよ。手を握られて嫌なのと同じくらいの感覚」
握られた手を軽く振る。
「じゃあ葉那は多分、俺の事を好きになれると思うぜ……」
またキスをされる。
だけど今度は唇を割って舌が入ってくる。
意外。いつまでも触れるのが限界だと思ってたけれど。
「ん……」
霞んだ頭、少し気持ち悪くて心臓が早くて、抵抗するのもだるくて、卑怯者ね……。
舌が咥内をなぞる。どうしてこんな行為が性的なのかしら。
「霧崎君……酔っているの?」
「俺は酔っていない」
目鼻の距離で息が整わないうちに、また咥内を犯される。
「ふ……」
貴方はいいわね。でも私は溜まっていく唾液をどうすればいいの?
貪るような勢いだからだんだん押されて行って、ついに背がソファに沈み込む。
「葉那……」
唇が離されて、頬にひとりと手が当てられる。あの人と似た面立ちだから、どうしてもずっと幼く見える。
それともこの蒼い目が、この人の幼げな母親を想い出させるのかしら。フランス人形みたいに愛らしい――あの人の妻。
どちらにしても、その瞳、苦手だわ……
私はそんな心情で、瞳に向かって手を伸ばす。
きっとそんな事もつゆ知らず、私たちはお互いの頬に手を当てている。
この人だって何を考えているのか分からないし。もしかしたら彼は父親が嫌いだったから、父親に惚れている女を奪いたいだけなのかもね……
「俺はお前が好きだ。お前が俺を好きになれないなら、俺は親父の代わりでもいい。葉那の傍にいたい」
「真次さんの代わりになれる人なんて、いないわ」
「俺は顔が似ている。血も同じだ。代替なら俺が一番できると思う」
「馬鹿みたいな事言うのね……。貴方、父親が嫌いなくせに。真似なんかできるの?」
「葉那がここを出て行くのが怖い。親父との事が吹っ切れたら、もう二度と俺と会おうとしないだろう」
「私が真次さんの事を諦めるなんて、ないと思うけど。別に未だ、振られた訳じゃないんだし……」
「それは無理だ」
少し笑って彼は言う。
「あんたが望んでいる事は、あんたを適当に思っていたらできただろう。だけどあんたはあいつにとって近くなり過ぎた」
「そうね……それは少し思うわ。別の出会い方をしていたら、一度真次さんに抱いてもらう事くらいできたのかもしれないわ……」
「だけど絶対にお前は幸せにならなかった」
「だから、それでもいいのよ。貴方だってそうじゃない。誰かの代わりだっていいから、私に傍にいてほしいんでしょ。必死なのよ」
「俺はいつかあんたが俺を見てくれるようになると思っている」
「あら、結構ポジティブなのね……」
くす、と微笑った。
「ねえ、そろそろ起こしてもらえる……?貴方がそこにいると起き上がれないわ」
「ああ……」
残念そうな声が滲んでいて、ああ、可笑しいわこの人。
抱き起こされる。私はそのまま向き合うように彼の膝の上に座った。驚いた表情がこちらを見返す。
「葉那……?」
「貴方、思ったより話が通じそうだわ……」
首に手を回して、下から見上げる。胸先が触れそうな距離で。
「ねえ、私の事、抱きたい?」
こくりと、小さく喉が動くのが見えた。
「……いいのか?」
髪に触れ声を顰めて彼は訊く。
「貴方次第よ……私と取引、できるなら」
「取引?」ちょっと訝しげな顔をした。
「私ね……
ぴく、と硬直したのが分かった。顔が強張っている。
「真次さんが私を抱いてくれたら……その後なら、貴方に抱かれてもいいわ。貴方の事、好きになれるように努力もする」
「……それは、だからあいつはお前の事、娘みたいに思っている。だから、無理だ」
見つめた目から逸らして彼は言う。
「私、ファーストキスは好きな人と、て思っていたのに――あんなの酷いわ。人違いだって、気づいてたんでしょ?」
「……」
「もう壊れそう、壊れかけているのよ……貴方にも少し責任を取ってもらいたいわ。私を満足させてよ」
「俺が代わりにはなれないのか」
「代わりにしてあげるわ、でも初めだけは割り切れないの」
「ねえ、お願い……何でもしてあげるから」
ぎゅっと抱きついて、耳元に囁く。
自分でもこんな男に色気を使うなんて、思いもしなかった。それでも彼は固まったままで、やっと口を開いたと思えば躊躇いがちに肩を離す。
「それが正しいのか分からない……余計お前は苦しむんじゃないか」
「そう……無理にとは、言わないわ」
首からするりと腕を下ろして、立ち上がる。あ、と彼がたじろぐのが分かった。こんなに面白いのね、駆け引きって。
「別に貴方でなくてもいいわ。貴方が一番成功しやすそうだっただけで。真次さんに近づけて、今の条件を呑んでくれる男性だったら私、誰でもいいの……」
大きな窓に手をつけて、夜景を見下ろす。
ここから飛び降りたって後悔しないくらいなんだから……
「……本当に誰でもいいのか」
すぐ後ろに声がする。
「ええ……目的を果たせるなら」
「何で自分から不幸になろうとする?」
「私の幸せを人に推し量られたくないわね」
「あいつとの道はない。この先お前が俺を好きになる時が来たら、した事に後悔すると思う」
後ろから腕を回されて、お腹と、鎖骨の下辺りに触れられる。
「やめて」鋭く言った。
「今もし無理矢理私を抱く気なら、一生貴方の事好きになんかならない。今すぐここを出て行くわ。貴方には二度と会わない」
する、と腕が離れて安堵するのを気取られないようにする。
「無理矢理する気はない」
プライドに障ったのか、はっきりとした口調。
「私だって、貴方の気持ちを弄びたくて言ってるんじゃないのよ。悪かったわ。貴方にはお母様の方がずっと大事だと思うし……」
「俺はお前の方が大事だ」
反抗するように言う。本当に、手に取るように反応を返す。
「ね、少し協力してくれるだけでいいのよ。真次さんとお酒を飲んで、酔ったらホテルで少し休んで……私が介抱するから。それだけでいいの」
「そしたらお前は、あいつをもう諦めるのか?」
「ええ……それだけ叶えたら十分よ……」
「――分かった」
バカね。ふ、と微笑する。
「葉那……」
キスをしてこようとするのを、人差し指を押当てて止めた。
「終わった後のお楽しみよ」
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