第3話 コーラの味覚。

「ん……」


 壁伝いに片脚を引きずって歩く。靱帯が切れただけでも満足に歩けないなんて。しかも複雑に痛めると骨折より完治に時間がかかるらしい。

 夜。

 ――に出て行こうとしたら見越したように外から鍵がかかっていたので、昼過ぎに一か八か出てみた。大丈夫。いつも回診? に来る迄時間はあるし……昼食を運んで来た時には従順に振る舞った。

 大体なんであいつにそんな権限があるのよ。こんなの絶対おかしいわ。他に人はいないの?


 誰ともすれ違う事無く建物はひっそりとしていた。

 まさか本当に誰もいないの? と空恐ろしくなる。部屋にいても誰の気配も感じなかったし……とにかく廊下を歩く。


 絶対にある筈よ、公衆電話が。

 

 きっと短い距離を、とても長く感じて漸くそれを見つけた。弾む心で受話器を取って、でもはたと絶望に襲われる。

 ……コインがない……

 着ているのは簡易な病院服。病室には荷物もなかった。信じられない、こんな都会で。体が不自由で携帯電話がないだけで、助けも呼べないなんて。


 緊急ボタンがある。救急車か消防車を呼ぶ為の。


 でもこんな事で大事にしたら下手したら気違い扱いをされかねない。患者が勝手に「救急車を呼んだ」なんて報告を受けたら、精神科に行った方がよさそうね、なんて以前の私なら思うもの。


 どちらにしろ真次さんにご迷惑を掛けるようなことはできないし……

 ああ、つくづく何であいつがあの人と血が繋がっているのかしら。そうでなければすぐにでも通報してやるのに。本当に憎たらしい。


 途方にくれてへたりと座り込む。

 少し先に自販機が見えた。もしかしたら、小銭が……と浮かびかけた思考を振り払う。この私が、そんな浮浪者みたいな事はできない。

 私は「日下葉那」なのよ。真次さんにもそんなみっともない事をしたなんて、笑い話にもできない。

「……」

 でも、と目が離せなかった。

 チャンスは今しかないかもしれない。

 ――ずり、と痛む脚をひきずった。と、


 カラ。カツカツ、と静かな病棟を足音が響いた。


 びくりと身が強張る。あいつじゃなければ声をかける、そうでなければ隠れなきゃ――縛るとか狂った事言ってたし。大丈夫、未だ足音は遠いわ。とにかく早く、あの自販機の影に――


「……何してるんだ?」


 自販機の前に立った男が、身を小さくして横に隠れている姿を見て不思議そうに問う。そのまま小銭を入れるとぴ、とボタンを押してガタ、と何か飲み物が落ちて来る。どうやらこの自販機に用があったらしい。


「お前は?」

「……コーラ」


 ぼそっと、投げやりに返した。


 ……意味が、分からないわ……


 巻き戻しをするように病室に戻って行く廊下を、呆然として眺める。しかもこの世で最も嫌いな男に抱きかかえられて。

 信じられない。

 つい先日迄私はロシアにいて、今頃真次さんに美味しい珈琲を出して、あの吹雪の日は真次さんが家に来てくれて……思えばあの一夜だった。あの日を境にまるで枕返しにでもあったように不幸に駆け落ちた。


 ゆっくりとベットに抱き下ろされ、カン、とサイドテーブルに缶が置かれる。ガチャリと確実に鍵が閉められる音がして男が出て行った。


 終わった――


 プシュ、とタブを引く。

 全て忘れさせてくれそうな、軽快な音。

 カラとすぐまた戸が引かれる。ノックも許可もなく。私には拒否する人権もないわけね。

 男が抱えていた束を置く。

 クロスパズルだとか……余計な事を考えないで暇つぶししろって事かしら。


「意外だな」


 何の事を言われているか分かって、でも窓外の木の枝に目を向けたまま答えない。


『意外ですね』


 いつか自販機で、真次さんが選んだものに思わず口にした。真次さんは何も言わずに微笑んで、君は、と訊く。


『じゃあ私も、同じものを――』


 そういう炭酸飲料ペプシ・コーラは、初めてだった。シャンパンやペリエなら飲むけど……全く新しい味覚だった。本来の味を隠すように、無理矢理甘さと刺激を舌に押し付けるような。


「好きなのか?」


 無視を続けてぼーっと外を見る。カウンセリングの真似事でもする気なのかしら。無駄口がないところだけは評価に値するのに。

 と、手の缶が取られて振り向く。

 男がそれを口に付けていた。ひとくち口にしてサイドテーブルに置く。


「……もういらないわ。持って帰って」

 貴方の口にしたものなんて。


 意味が分からない。どうしてこんな事をするの?


「少し散歩をするか? 天気が良い」

「それができたらこんなところにいないわ」

「車椅子がある」

「貴方に押して貰うなんてごめんだわ。偽善的な事を言ってないで、少しでも他人を気遣えるなら早く診断書とやらを書いてほしいわね」

「……親父は来ない」

「分かっているわよ。私、そんなに甘えてないわ。あの人は忙しいんだから」


 かっとなって響いた声に、恥ずかしくなって外を向く。分かっているわよ。ただ、声を聞くだけでいいの。それに……来てくれたのよ。夢かもしれないけど、来てくれた。

 男は屈んだ。脚に手を添える。


「ねぇ、そんなに頻繁に包帯を換えるものなの? それに、見て覚えたしそれくらい自分でできるわ……。置いて行ってもらえれば自分で換えるから」


 ただ黙って男は包帯を解いていった。

 なんだか片脚だけ一回り細くなっている気がした。本当にこれで合ってるのかしら。この人は正規の医者じゃないんだし……


「もうすぐここは使えなくなる」

「……?」

「学期が明けたら学生が入って来て……騒がしくなる。近く別の場所に移動する」


 それだけ言って、後は淡々と包帯を換えて男は出て行った。





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