第2話 最悪の主治医。
葉那……葉那君……
聴こえる……呼ぶ声が。
ほっとする温もり……
沈み込んだ意識を昇っていく
瞼を開けた……
霞む目が、朧げな灯の中の姿を捉える。
傍らに人がいる。私の顔を覗き込むように。
ぶわりと涙があふれる。次々と落ちて行く。忽ちに視界がぼやける。
――来てくれた……
私は未だ、見捨てられていない。そうなんですね、
――真次さん――
私、私、もう、言ってしまいたい……
「あなたの事が、好きです……ずっと」
数ヶ月間なのに懐かしい面影。全て包み込む優しい黒の眼差し。
どうなってもいい。
ただ、あなたが大好きなんです。
これまでずっと守ってきた。怯えて来た。
だけどたった一度だけ、賭けをする勇気を下さい。
距離を掴むように手を伸ばして頬に触れる。瞼を閉じて、唇を近づける。
神様どうか私に、一度だけ幸運をください
触れた
すぐに離れてしまいそうな程軽く触れただけ
だけど確かに、ああ夢なのかしら、唇が触れ合った――
熱い涙がこぼれ落ちる。
私、もう、これで死んでしまってもいい……
ずっと恋焦がれていた人と、初めてのキスをした。
*
「ん……」
朝の光を浴び、心地よく目覚めた。
体に残る幸せな感じ……なんだろう。
そうだ、私、真次さんと――
カタ、
戸が引かれてふいと向く。
「……目が覚めたのか」
白衣を来た背の高い男性が、だけど顔を見る間もなく踵を返して出て行った。
今のは……。どこかで聞き覚えのある声だった気がしたけれど。
その答えは間もなく同じ男性が入室して理解した。
「あなたは――霧崎君……?」
ネームプレートを首から下げた男性は、ことりと脇にスープを置く。仄かに海老の香りがした。
YOSUKE KIRISAKI
顔だけが似ていて性格は似ても似つかない――あの人の息子。中高を同級生として過ごし、確か卒業後は渡米していたか。蒼色の眼で、見下ろしている。
「どうしてあなたがここに?」
「……ここは大学に付属する医療研究施設で、俺は研究員をしている。事故現場と近かった為、大学は軽少者の応急手当場所を提供した」
相変わらず無愛想で、抑揚の無い低い声。
「そう。経過と被害状況は?」
「……」
「言って」
「警察が踏み込み交戦、人質を逃すが犯人側は自爆を試み建物は倒壊、爆破で犯人5名全員が死亡、殉職14名、人質76名中死亡32名、重傷34名、不明3名、他軽傷者多数」
「日本人は」
「日本国籍者……三名死亡が確認されている」
「……そう。携帯電話を貸して貰えるかしら」
「禁止区域だ」
「じゃあパソコンを」
「それもできない」
融通の利かなさに神経が逆撫でられるが、努めて冷静に説明を試みる。
「――至急報告しなければいけないの。私は外務省、在ボストン日本国総領事館の職員なのよ」
「その必要はない。お前がここに運ばれて来てから三日経つ。領事館からは、医師の指示に従って必要期間休養するよう通達があった」
「じゃあ休養は終わりよ、こんなところで寝ている場合じゃないわ。被害が
「復帰の必要はない。暫く休むように、ということだ」
「それって……」
「……」
「――つまり私は謹慎って訳ね。当然ね、被害者が百名近く……私が……」
「おい、余計な事を考えるな」
「余計? 貴方には分からない。私がどれだけの責任を負ったのか」
「誰だろうと同じだった。要求はあってないような、見せしめのテロだ。突入するしかなかった」
「分かっているわ、貴方と話しても意味がないことは。頭が痛むの。何もできないなら一人にして」
「強く頭を打っているからな……」
頭を覗き込むように手が触れて、思わずぱしりと払い落としていた。
「あなた、まさか医者なの?」
「いや、医師免許は持っているが……臨床医ではない」
「だったらもう出て行って」
「……ああ」
静かに戸が閉まるのを見届けて、ぽすりと頭を枕に付ける。
許可なく出て行ってこの始末、免職だって有り得る。これからどうやって生きていくのだろう。でも、
『葉那君』
指で自分の唇に触れて、思わず顔が熱くなる。
――でも、どうなっても生きていける――
仕事もあの人に近づきたい一心で就いたものだ。いつか隣に立ちたい、仕事なら追いかけていい――あの人の背中を。
目蓋に焼き付いた黒を想い出してパチリと瞳を開けた。
いいえ、駄目だわ。自分で言ったじゃない。退職なんて責任を取ることにはならない。少なくともそれを決めるのは私じゃない。
***
「ねえ霧崎君、いつ退院できるのかしら」
脚の包帯を換えるのを見て訊く。
「松葉杖かなにかがあれば日常に支障はきたさないと思うのだけど」
「……」
男は何も言わない。昔から話す方じゃなかったけど、なんだか前よりずっと無口で暗い雰囲気になった気がする。
「考えてみたら主治医もいないのよね。ただ応急手当を受けただけで。もういいわ、後は自分で病院に行くから」
それでも男はただ黙って包帯を巻いていた。
なによ……でも、そうね。相手が相手だからって、私も今の言い方は礼に欠けていたわ。
「処置してくれてありがとう……でも、もう大丈夫よ。悪いけれど、松葉杖を貸して頂けないかしら?」
きゅ、と包帯の最後を止めると男は立ち上がった。
「主治医は俺だ。お前は未だ安静が必要だ」
「貴方、医者じゃないって言ったじゃない」
「免許を持っている。この程度なら問題ない」
「問題ないなら帰してよ」
「診るのが問題ないと言ったんだ」
ああ、やっぱり年が経っても変わらないのね。私はこの人が苦手なのよ、全てが。どうしても苛立ってしまうわ。
「話しても無駄みたいね。いいわ、勝手に帰るから」
脚を引きずってでも帰ってやる――と立とうすると腕を掴んで戻された。
「離してよ」
「……復職には診断書が必要だ」
「……」下から睨みつける。「――それで? 私にどうして欲しいの?まさかこんなところで仕返ししてくるなんて見損なったわ、霧崎君」
蔑んだ目で、辛辣に言い放った。
「違う。お前は休養が必要だ。働き詰めでまともに休みも取っていないだろう」
「何でそんなこと貴方に――」はっとする。
「真次さんは? 真次さんがそう言ったのね? 他に何か――電話をさせて」
「……」
男はまた黙って背を向けた。ベットを離れる前に腕を掴む。
「分かったわ。謝るから――ごめんなさい。だから、」
「何に謝るんだ?」ちら、と振り返って言う。
「学生の頃、貴方に必要以上に意地悪な言い方をしたと思っているわ。嘘は言ってないけど。気分を悪くしたならごめんなさい」
「……別に、そんな事思ってねぇよ」
「じゃあ何なの?どうしたら帰してくれるの?」
「医師として、お前が回復したと判断したらだ」
「貴方の独断な訳ね、病院でもないのに。下手したら幽閉よ。いいわ。絶対にここを出てやるから」
「……余り無理をしたら、ベッドに縛り付けるからな」
ぼそっと何か恐ろしい事を呟いて、男は病室を出て行った。
――本気で脱出計画を立て始めないと。
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