第1章 セカンド・コンタクト

第1話 同じ空を飛んで。

 空は青く、雲たなびく。

 ゴウと空気を巻き込んで、両翼を広げた飛行機が領事館の上を飛んでいく。トンと資料の角を揃えクリップで左上の箇所を留めた。

「先ほどの会議の議事録を作成しました。条約に関わる周辺諸国の近年の動向を分析した資料も添付しています」

 皺一つ無いスーツに身を包み、出来上がったばかりの書類をデスクに置くと上司は柔らかく微笑んだ。


「ああ、ありがとう。日下くさか君」

「コーヒーをお持ちしますね、さん」


 背に羽根が生えたように、軽やかな足取りで給湯室に向かう。『あの日』からひと回りの年月を経て、私は外務省での任に就いていた。


 初恋の人霧崎真次の背を追って。


 霧崎家は代々官界、日下家は政界の名士だ。

 自家の権威の及ばない、しかも海外へ赴任するなんて当然の如く親の反対は強かった。だけど生まれて初めてその意向を跳ね除け、最後は猶予という形で家を出た。許されたというより、挫折すれば分かるだろうと。

 でも正真正銘自分の努力だけで、ようやくここまで来れた。まだまだ雲の上の人だけど、同じ空を飛び続けたい。それだけが私の全て。 



 異国の雪降る夜の帰り道、隣では真次しんじさんがハンドルを握って運転している。送ってもらうこの帰りの車内が、唯一二人だけの空間。 

 

 二人の時はそう呼んでいる。やましい事は何もない。社交上の繋がりもあり、あの時から度々親交を結んで「友人」とまで言って貰えるようになった。


 職務上の立場は弁えているつもり――だけど私の態度はあからさまかもしれない。

 でもこれまでもその仕事と人柄に心酔する人は何人もいたようだし、この人が愛妻家であることも知れ渡っているので問題にするような人はいない。

 それでも仮に関係を疑うような噂があったとしたら、むしろ私は嬉しくなってしまうだろう。そんな風に見えるなら。真次さんに話したら、どんな反応をするのかしら……。

 ちらと見る横顔は嘘みたいに凛々しくて。


 サイドブレーキが引かれて

 キキ、と止まる。


「お休み、葉那君」

「おやすみなさい、真次さん」


 微笑を返しながらも、でもきっと隠しきれていないはず。この瞬間が一日で一番悲しくなることを。珈琲でも、と誘えたらいいのに断られるに決まっているからそんな事は言えない。


 湯上がりの体をバスローブに包みベットにばふりと横になる。外はいつの間にか強く吹雪いていて窓は雪が打ちつけられていた。ああこんな。一番幸せな記憶を思い出す……


 未だ入省間もない頃。同国に派遣され研修をしていた時だ。

 吹雪で真次さんからの連絡が途絶えた事があった。あの人は大丈夫だと周りは言って私も知っていて、それなのに雪山に飛び出してしまった。凍えそうで、でも光を見つけて、限界で意識を失ってしまって――声が、聞こえた。


 目覚めたらあの人の腕の中にいた。


 服が暖炉に乾かされていて、山小屋の中一枚の同じ毛布の中にいた。

 肌の体温

 あの人の服も隣に干されていた。凍てつく冷気の中、まるで肌も心も溶け合うように同じ体温になるまで、夢見心地の幸せの中にいた。


 あの後真次さんに――いいえ人生で初めて、真っ向から叱られた。冷静な判断ができないなら辞めるべきだと迄冷たく言われてしまった。


 そのまま研修が終わり容易に近づくこともできない遠い立場の人で、生まれて初めて挫折を味わった。それでもとても諦められなくて、がむしゃらに努力をした。下から這い上がるような状況は初めてだった。

 ――そうして誰かは見てくれていたのか、念願が叶い真次さんの下に配属された。


 ローブに包まれた自分の体をぎゅっと抱く。

 あの時の真次さんの眼差し……氷柱が突き刺すような冷たい眼だった。

 でも今思い出すとぎゅうっと締め付けられるような胸の痛みと共に、体の芯が熱くなる。誰にでも柔和な物腰のあの人が、それだけ真剣に向き合ってくれた証だから。

 あの人の家族だってきっと知らない。

 私だけに向けられた、黒い眼差し……


 ピンポン、

 

 とチャイムが鳴った。

「――?」嘘……

 インターホンを見ると、憧れのその人が映っていた。

「は、はい。今開けます」 

 慌ててドレッサーで軽く髪を整えて、襟元を正しローブをきゅっと締めた。



 *



「すまない」 


 軒先で雪を払って、でもコートも髪も濡れてしまっている真次しんじさんが申し訳なさそうに言う。


「雪でこの先の道が封鎖されていて、人もなく電波も悪いようなんだ。申し訳ないが、電話を貸して貰えないだろうか」

「勿論どうぞ。こんな恰好ですみません、早く入ってシャワーを浴びてください」


 コートを受け取ろうと触れた指先の余りの冷たさに驚いて手を包む。


「どうしたんですか、まさかここまで歩いて来たんじゃ……」

「ああ、タイヤがぬかるみにはまってしまって」

「え」


 真次さんはちょっと目を逸らして気まずそうにした。その様子が可笑しくて口元が緩んでしまう。


「君に笑われるだろうとは思っていたよ」

「そんなことないです、真次さん。外は吹雪ですもの。よかった、これで進んでいたら転落する可能性だってあったんですから、ぬかるみに感謝しないと」


 本当に感謝、だわ。

 まさか真次さんを部屋に迎える日が来るなんて。

 

 シャワーを浴びた真次さんに暖炉の傍でウィスキーを勧める。

 

「体を温めてください」

「ありがとう」

「何か……毛布も持ってきますね」

「ん……」


 真次さんはあおったグラスを置いて、瞼を重たそうにする。真次さん……なんだか無防備というか、いつもと雰囲気が違う。少しは気を許してもらっていると思っていいのかしら。


 戻ってくると、真次さんは目を閉じて椅子にもたれかかっていた。


「真次さん、ベッドで休んでいってください。しばらくはこの雪です」

「いや……そろそろ行く」


 立ち上がると背広を羽織り部屋を出ようとする。何だか様子がおかしい。コートも着ていないのに。


「真次さん……?ダメですよ、今外に出たら」


 止めようと触れた手の熱さに驚いた。

 なに、これ……!

 こんなに人の体温って上がるの?もしかして、これ、かなりまずいんじゃ……

 すぐに医者に診せないと……!

 焦っていると真次さんが手を軽く握る。


「大丈夫だ」


 その優しい声音に冷静さを取り戻した。

 ――そうだ。私がしっかりしなきゃ。 

 今は誰も外に出られない、私が看るのよ。

 半ば懇願してベッドに横になってもらい、氷を額に当てる。

 無理もないわ。連日重責を負う激務をこなして疲労も溜まっているだろうに、この吹雪の中を歩いて来たなんて……


「葉那君、」


 真次さんが瞼を上げて私を見上げる。


「すまない。少し眠ったら回復するから……三十分後に起こしてくれないか」

「はい、真次さん。起こすので何も考えずにゆっくり眠ってください」


 三十分だなんて。いつもろくに睡眠も取れていないのではないだろうか。

 それなのに私は送ってもらうのに舞い上がって、それが真次さんにとってどれだけ貴重な時間なのか考えもしなかった。期待以上に応えようと優等生ぶって資料を作っている時間があったら、他にできることがあったに違いない。

 ……ううん、私が今するべきは後悔じゃない。


 生乾きの服を脱がせて冷たい体を抱き締める。


 できることがあれば全部をしたい。

 貴方の疲労も体温も、全て私にください――




 朝、目覚めるとその姿はなかった。




 心配になりながらもいつも通り出勤すると、やはりいつも通りデスクにいる真次さんが見えた。ほっとして頬が緩む。服装は……昨日とは違う。一度家に帰ったのだろうか。


「おはようございます、真次さん」

「お早う、日下君」

「お体大丈夫ですか。今朝は――」

「ああ。君のおかげで良くなった」

「よかった。もう少しお体には気を使ってくださいね」


 にこやかに微笑むが、微笑ほほえみ返してはくれない。なにか奇妙な違和感を感じた。続けて一枚封筒を差し出される。


「急で悪いんだが――アメリカで人手が足りないそうだ。三日後、君に発ってもらいたい」


「――え」


 頭が真っ白になった。

 ……どうして……

 どうして私なんですか 

 職務上そんなことは詰め寄れないけど

 臨時ですよね、と聞いても現在はそうだが引き続き職務についてもらう可能性が高い、と。

 微笑んでも、励ましてもくれない。せめて私を信用している、任せたいとだけ言ってくれれば迷いもなくなるのに、この迷いにも答えてくれない――


 それでも信頼を失いたくはなく、泣きながら飛行機に乗るしかなかった。 


 アメリカに着いてからは考えてしまわないように只管ひたすら仕事に没頭した。

 自分で気づいたじゃない、私のやり方が悪かったんだわ。前に出ないことで責任も放り投げた、資料作りやお茶汲みなんて馬鹿みたい。あの人の庇護下にない、ここで実力を認められればきっとまた呼び戻してくれる筈だ。


 ほとんど眠らずに、化粧も服装もどうでもいい。かける時間があれば少しでも仕事をこなして、苦労を知って、あの人に近づきたい。こんなんじゃまだ全然私は倒れない。

 



「マサチューセッツ州で立てこもりテロの発生。日本人は学生及び観光客数名の人質を確認。犯人は要求を呑まなければ爆破すると――」




「現場には私が行くわ」


 連絡を受け取ると言うが早いかジャケットを羽織はおる。やめなさい、危険だ、未だ――と言う声を振り払う。

「じゃあ誰がいつ行くの?」

 あの人だったら真っ先に、軽やかに現場に降り立って何でも無かったみたいに解決するはず。せめて男性職員を、という声に背を向けて出て行った。



 ・

 ・

 ・



「ん……」


 朧げな視界に映る天井。

 ここは……どこ

 起き上がろうとするとずきり、と脚が痛む。

 無機質なパイプベッドに横たわっていた。

 なに……

 確か――そうだ、私は現場に着いて、状況を確認して保護を――


 ……脚を撃たれて、転倒して


 ピシリと頭に亀裂が走るように痛んだ。

 涙が出た。

 私、あんな啖呵を切って出て来て置いて結局役立たず――

 ヤクタタズ

 嫌、嫌だ……あの人にだけはそんな眼を向けられたくない

 ――待ってください、未だ私はやれます


 動かない脚を引き摺ってベッドの縁から払い落とし、無理矢理立ち上がる。

「ああッ――」

 激痛と共に意識が遠のいて行く……最後に、誰かが私の体を抱き上げた、気がした。


「……葉那」


 その声にどこか懐かしさを覚えながら、私は意識を手放した。





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