第2話 平重盛の失墜

「妻を失い、宗盛は腑抜けになった」

 朝廷内でそんな風聞が行き交っているという。


「許せん、いったい誰がそんな噂を流しているのだ」

 二人の弟が屋敷を訪れている。

 父、清盛から見て、四男の知盛、五男の重衡だ。血気盛んな重衡は床を叩きながら激高している。


「落ち着け。おれは気にしておらぬから」

 戦う事ができなくなったのは本当なのだ。


「そこは気にしろよ、宗盛兄は優し過ぎるのだ。もう我慢ならん、家人を総動員して噂の元凶を探し出してくれる」

 顔を真っ赤にする重衡。どれだけ取り乱していようと、端正な容貌は不思議な魅力を放っている。実際、我ら兄弟の中で最も女性に好かれるのはこの重衡だった。


「何を笑っているのですか、他人事ではありませんぞ」

「ああ、分かったよ重衡。だがそれくらいにしておけ」

 見れば知盛も苦笑を浮かべている。


「何故だ。知盛兄も、こんな噂を放ってはおけんだろう」

「そうだな。放ってはおけないが……」

 どこか冷ややかな声で知盛は呟くと、少しだけ首をかしげた。


「重盛どの、なのでしょうね」

 知盛はその名を告げた。そしておれも同じ事を考えていた。

「おそらくな」


 ☆


 平重盛。清盛の長男である。

 この場合の長男はそのまま嫡男という意味ではない。宗盛と知盛そして重衡は清盛の正妻、平時子を母とするが、重盛は妾腹であった。

 軍事のみならず治世においても並々ならぬ才を発揮する重盛だったが、清盛はどこか彼に対し冷淡だった。

 重盛の左大将任官と時期を同じくして宗盛を右大将に進めたのも、重盛を牽制するためだと疑えば疑えない事もない。



「ちょっと待て、重盛どのは稀代のいい人だと思うぞ」

 重衡は戸惑っている。

 確かに世評では、仏教に深く帰依した人格者で通っている。だがそれは全くの仮面でしかない事をおれは知っていた。


「あの方はね、重衡。すごく怖い人だよ」

 ぽつり、と知盛が言う。

「恨みは温顔でやり過ごし、後になって人知れず復讐する執念深さを持っている。ああいう人は苦手だ」

「まさか」

 重衡は絶句した。

「おれは平家の後継者は重盛どのが適任だと思っている。しかし、重盛どのは競合する者は全て蹴落とさねば安心できないのだろう」



 数日後、その重盛の使いだという僧が屋敷に来た。

「宗盛さまには奥様の霊が憑いております」

 開口一番、その僧は言う。

「それが心を弱らせ、敵を前にして怯えさせるので御座います。これより祈祷を行い、そのような悪霊を祓いたいと存じます」


 得意げな僧の顔を見て、おれは傍らに置いた剣に手をかけた。今ならこれを抜く事ができそうだった。

「清子は死んでなお誰かを祟るような女ではないぞ。嘘だと思うなら直に訊いてみるがいい」

「は、はぁっ……それだけは」

 僧は部屋の隅に向けて這いずる。


「重盛に伝えよ。おれの事ならばともかく、清子を貶めるのは許さんと」

 ひいーっ、と悲鳴をあげた僧は、転びながら屋敷を奔り出て行った。


 おれは手にした剣に目を落とし、ひとつ溜息をついた。


 ☆


 やがて事態は一変する。


 平家一族において重盛の立場は意外な程に脆かった。母方に有力な貴族のいない彼は、妻の兄であり後白河院の側近、藤原成親が最有力の後ろ盾であった。


 その成親が鹿ケ谷において反平家の陰謀を企んだ咎で捕縛されたのである。

 重盛の必死の訴えにより成親は死一等を減じ遠流となったが、これにより重盛が平家の家督を継ぐことは絶望的となった。


 失意の重盛は急速に病み衰え、死の床につく。

 重盛は国内のみならず、海を渡った宋国の名刹育王山の寺院にまで金銀をばら撒き、なりふり構わず延命を願ったが、それも叶わなかった。


「奴には……宗盛にだけは、平家の棟梁の座は渡さぬ」

 呻くように言った重盛は、そのまま息を引き取る。



 だが重盛亡き後、平家の棟梁に選ばれたのは宗盛だった。



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