愚者の肖像
杉浦ヒナタ
第1話 子殺し
「お父さま。母さまは、どこへ行かれたのですか」
おれの横にちょこんと座り、清宗は顔を上げた。その幼い瞳には涙を溜めている。
「清宗。お前の母はな」
おれも言葉に詰まる。
まだ自分の中でも、妻、清子の死を受け入れられないのだ。ましてや、こんな幼子にそれを理解せよと云うのは無理だろう。
ぐい、と清宗を抱き寄せる。
「母はな……」
結局、次の言葉は出なかった。
☆
太政大臣、平清盛の三男として生まれた宗盛。
各地で頻発する叛乱鎮定に幾度も出陣し、その度に武功をあげてきた。彼が若くして殿上人に昇ったのは、ただ父親の威光だけではない。
宗盛は後白河上皇の妃、滋子の妹である清子を妻とし、彼女との間に清宗をもうけていた。これは当然、清盛の朝廷対策の一環ではあるが、二人の仲は睦まじいものだった。
その清子が、思いがけない病によって世を去った。
宗盛に異変が起こったのはそのすぐ後の事である。
父の清盛から地方での叛乱の平定を命じられ、手勢を率いて都を出立した宗盛だった。しかし戦闘が始まった瞬間、宗盛は崩れるように、その場に尻をついたのだ。
そして震える両手を信じられないように見た。
その理由に、宗盛はすぐに思い当たった。
「怯えているのか……このおれが」
歯の根が合わぬ程、全身が震えている。
妻、清子の死顔が目に浮かぶ。そして自分までが死んだなら、残された清宗はどうなるのだろう。それがたまらなく恐ろしかった。
「清宗を残して死にたくない」
その思いだけが強く湧き上がってくる。
今すぐこの戦場から逃げ出したい衝動に駆られ、宗盛は周囲を見回した。どうやら戦いは宗盛方の一方的な勝利で終わろうとしている。
しかし依然として、こわばった右手は刀を鞘から抜くことは出来なかった。
宗盛は呆然と天を仰いだ。
☆
屋敷に戻ったおれは、寝息をたてる清宗を見下ろしていた。
「あどけない寝顔だ。まるで天人のようではないか」
だが、おれは気づいた。
いや、心の中で誰かが囁いたのだ。
「この者がおれに、現世への執着を起こさせるのだ」
胸の鼓動が早くなっていく。自分でも気づかぬうちに呼吸が荒くなっていた。
そうだ。おれが戦場を怖れるようになったのは、この清宗がいるからに違いない。戦えなくなった武士に、何の存在意義があろう。
ならば煩悩、執着の原因を消さねばならない。
「この宗盛が武士であるためだ」
おれは何かに操られるように、清宗の首元に手を伸ばした。
「平家のためなのだ、ゆるせ清宗」
両手の指先が清宗の首筋に触れた、その時。
「ああ。お父さま、お帰りなさいませ」
清宗がうっすらと目を開けた。眠そうな、無邪気な笑顔をみせる。
「……!」
おれは弾かれたように手を離した。
双眸から涙が溢れだす。途端に憑き物が落ちたようだった。
「おれは一体何をしようとした」
震える両手を見詰め、おれは呻いた。清宗を殺そうとしたのではないか。
「おれは清宗を護る為、戦わねばならぬのに」
「お父さま、よしよし」
泣きじゃくるおれの頭を、ちいさな手で清宗が撫でてくれる。
「清宗……父はな……お前のために生きるぞ」
どんな恥を耐え忍んでも、お前と共に生きてやる。
だがこれ以降、おれは刀を抜くことができなくなった。平家屈指の勇将と呼ばれた平宗盛はこの日、死んだのだ。
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