第153話

 「女神には何もない。だから生まれ育った世界に捨てられた。女神も、しがみつかなかった。元の世界に愛着あいちゃく執着しゅうちゃくもない。大切なものが何もない。誰も本気で戻りたいなんて思ってない。元の世界に戻っても何もないから。むなしいだけだから。記憶も思い出も残ってない。名前も忘れた」

「名前って。でも由香里は覚えているだろ」

 由香里はさびしげに首を振る。

苗字みょうじを思い出せない。両親と二人の妹たちの名前も忘れた。顔もおぼろげ。そのうち完全に忘れると思う。その存在も。私の中には、祖父母とシマしか残らない。他には何もいらなかったから」

 由香里は白い床を見つめた。

「モルモフに女神として求められた。だからその期待きたいに応えようとした。モルモフに骨をうずめる覚悟かくごをした。子供を自分の血を遺伝子を、モルモフに残したかった。モルモフにざりたかった。死んだらこの肉体は、獣に食われ土にもれて微生物びせいぶつ分解ぶんかいされて、他の生物の養分ようぶんになり、モルモフの命をつなぐ。たましいは天にのぼり、輪廻りんねの輪に乗って他のうつわ宿やどり、モルモフの地上におりてくる。そう思ってた。そう願ってた。けれど願いはかなわない。女神は、生きてる間も死んでからも、否定されて拒否されて捨てられた」

「俺たちは……」

 由香里が首を振る。アズキは言いかけた言葉をのみ込んだ。

「ツガイモの精を受けなければ生きられない、この体が嫌だった。私だけ、他とはちがう。発作で苦しむたびに、ツガイモの精を注がれるたびに、私はモルモフの者ではない、異世界から来たよそ者なのだと、孤独を感じた。それでも、この世界で生きていきたかった。しがみついて、血を吐きながら、歯を食いしばりしのんで、努力した」

 ヘザーの中で、死んだ女神がすすり泣く。

 由香里は死んだ女神を見て言った。

「その思い、本になって私に読ませて」

「…………」

 真っ白に光り輝く部屋の中、沈黙ちんもくが広がった。

 ぽたり。

 ヘザーの目から涙が落ちた。

「女神にしか読ませない」

 ヘザーの口から言葉がもれた。

 ぱしゃん。

 ヘザーの体がけて透明とうめいな水になり、涙となって流れ落ち、床を流れて部屋の角、アイリスの杖の下へと流れ込む。魔女の杖が青く輝き、宮殿を青い光がのみ込んだ。



 

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