第147話

 その頃、アズキは別の部屋、壁を通り抜けて真っ白な部屋に出た。タコの足はどこかに消え、左手に布のはしをにぎってもやの中、白いもやの立ち込める部屋の中に立っていた。

 由香里の姿は見えない。左手でつかんだ青灰色の布の先端せんたんは、由香里の手首に巻き付いているはずだ。布の先はもやの中。アズキは布を辿たどってもやの中へと進んでいった。

 この部屋の白くてかたい床石は、歩くたびにキュッキュッと音がする。嫌な音だった。この部屋は音がひびく。なのに広さがわからない。さっきからずっと歩いているが、いっこうに壁に当たらない。行けども行けども、もやの中。白いもやに囲まれて、足もとの白い床しか見えない、

 ピチャッ。

 水音がした。

 下を見ると、赤い水溜みずたまりをんでいた。パッ、と足を上げて後退あとずさる。ヌルっと白い床に赤い靴跡くつあとがついた。……それは赤い血溜ちだまりだった。

 にぎった布は、この先に由香里がいるとげている。けれどアズキの本能は、この先危険と告げている。

 アズキは血溜りを踏むと、先へ進んだ。立ち込めるもやの中、もやもやとにおいがアズキを取り囲む。血臭に死臭、その中に情交じょうこうのにおいがじる。

 ガシッ。突然、足首をつかまれた。

 目をやると、女の白い手が……裸の女と目が合った。……この女を知っている。その細い体に精を注ぎ、この手で殺した。

 女はうらみのこもった目でアズキを見上げ、何か言おうと口を開いた。その口から大量の血がこぼれる。

 いつの間にかもやが晴れ、床一面、血の海だった。血の海に横たわるたくさんの裸の女たち。アズキが抱いて殺した女神たち。

「どうしてこんな……私が何をしたって言うの?」

「ねぇ、抱いて。愛して。お願いだから」

「行かないで。一緒に死んで」

「助けて。殺さないで」

 血にまみれ血を吐きながら、女神たちの亡霊が口々に、ささやうめき恨めしく、アズキに向かって手を伸ばす。

 アズキは低くうなるように言った。

「俺にも言い分はある。ツガイモとしても女神殺しに関しても、おまえら女神に言いたい事や恨みつらみは山ほどある。わめきちらしたいのはこっちの方だっつーの。それでも……」

 アズキは自分を取り囲む女神たちの顔を、ひとりひとり見て言った。

「悪かった」

「…………」

 きょかれた女神たちが、言葉を失う。白いもやがモヤモヤと立ち込めて、女神も声もにおいも血も、全てを白く消し去った。

 再びもやが晴れた時、アズキの目の前に、黒いナイフを持った由香里がいた。

「由香里……」

 由香里の右腕は血だらけだった。右手首に巻かれた青灰色の布は血にれて、そのほどけた先端はアズキの左手の中にある。

 由香里は目を閉じたまま、左手に持ったナイフを右腕に振り下ろした。由香里の右腕から新たな血が流れる。黒いナイフは、ぬらりと赤い。

「由香里!」

 アズキの声に、由香里は反応しなかった。……あのナイフは何だ? 禍々まがまがしい黒いナイフが、由香里の血で濡れている。

「由香里、そのナイフを離せ」

 アズキがナイフに手を伸ばすと、由香里はサッとナイフで払った。

「おっと、あぶねっ」

 アズキは間一髪かんいっぱつでナイフをよけた。アズキの服がスパッと切れる。

「……由香里、そのナイフはヘザーだ。そのナイフを離して、夢からさめろ。離さないなら、力づくでうばう」

 由香里はゆらゆられながら、アズキに向かってナイフをかまえた。



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