第119話

 視界が変わり、世界が変わった。

 由香里とアズキは本の外、本の館の中にいた。

 見る間に由香里の手の中で、ビーの本が溶けてゆく。水になる。黒い表紙が透明な気体となって空気の中へゆらりと消えた。手の中に残った水が丸く集まり、やわらかな黒い毛玉に変化した。ふわふわの黒い毛玉は豹になった。

 由香里の両手にすっぽりとおさまった黒い子豹が、にゃあ、と鳴いた。由香里を見上げ、キトンブルーの目を細めて、にぱっと笑った。

「……ビー? 本の中から出てきたの?」

 目を丸くする由香里に子豹が笑う。

「うにゃあ。違うお。ビーはぁったのお」

「何て言ったの?」

「それもぉ違うお。ビーはぁ満足したのお」

「何に満足したの?」

「ビーはぁ踊りと歌と楽器がぁ大好きなんだお。夢中だお。でもぉひとりなんだお。誰もぉビーにぃついてこれないんだお。ひとりで舞ってぇひとりで歌ってぇひとりで楽器をかなでたんだお。単調だお。つまんにゃあい。ひとりではぁ重なりもぉ幅もぉ深みもぉないお」

 子豹がションボリ耳れる。

「ビーはぁ本になってぇ一緒にぃ踊れる者を探したお。育てようとしたお。でもぉちいっともぉ育たなくってぇみぃんなぁを上げてぇへばってぇ死んじゃってぇ本の外に捨てたんだお」

 子豹が尻尾をピシっとった。

「……捨てたんだ」

「死体を吐き出す本だよ」

 おだやかな声がした。声のした方に目をやると、声の主、チャシュが由香里の足もとで、ウサギと仲良く鼻チューしていた。

「おかえり」

 金色の目が由香里を見上げてほほ笑んだ。

「ただいま」

 由香里もほほ笑む。私の帰りを待っていてくれて、おかえり、と言ってくれる者がいる。由香里にはそれがとても嬉しかった。

「おかえり、由香里。髪のびたじゃない! よかったわ。あら、それは猫? じゃなくて豹なのかしら?」

 アイリスが由香里の肩越しにのぞき込む。手乗り豹はアイリスに見向きもしない。

「んー。強い思いや未練みれんを残して死にきれず本になった者は、満足すると消えて逝く。本ごと消えるわ。ハニービーンの本が消えて、残ったそれは何なのかしら?」

 アイリスが子豹をゆびさす。黒い子豹は手の中から由香里だけを見つめている。

「ビーは私と踊って満足したの?」

 子豹が満面の笑みでうなずいた。

「心から」

「……そっか。ビーも逝ったんだ」

 由香里はビーの冥福めいふくを祈った。

「あたちはぁちっちゃなぁびーなんだお。これからもぉ由香りんと一緒にぃ歌い踊り奏でるのお。踊る豹だお」

「そうなんだ。楽器は今ないけど、歌と踊りならいつでも。……小さなビーだから、ミニビィでいい?」

「おん」

 ちっちゃな黒豹ミニビィはうれしそうにのどをならして由香里の手に体をこすりつけ、そのままスッと由香里の中へ吸い込まれるように消えた。

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