第7話 わんわん?パニック

 先ほどまで暗い地下にいたはずだ。しかし、眼前に広がる光景はどう見ても、地上の景色である。


「ふむ……この木も花も触れることができる。感触や匂いも地上と同じだ」

「それだけじゃねえ、遠くの方から水が流れる音がする。それに風も感じるし、何より上見てみろよ」

「……これは!?」


 レオンに言われた通り、セオドアは上を向く。するとそこには、あるはずのない太陽が燦燦と輝きを放っているではないか! 迷宮の中に、太陽がある? それともあれは偽物で、でもそれだとすれば何なのだろうか? 迷宮にはまだまだ解明すべき謎がある、そう思うと興奮が冷めないセオドアであった。


「素晴らしいな迷宮は! 私の好奇心が尽きることを知らない!」

「おいおい、現実からトリップするなよ。あとこれ」


 今にも駆けだしそうなセオドアに、レオンはさっと何かを渡す。それは、先ほどの地下室でみた茶色の紙だった。そこにも何かが書かれている。


「で? なんて書いてあるんだよ」

「……逃げろ」

「は?」

「逃げろとしか書いていない」


 2人は閉口し、最悪の可能性を考えていた。逃げろと書かれているということは、つまり、

 冷や汗が2人の首筋を伝う。いつでもここから駆け出せるように、体勢を整えたその時だった。


わん、わんわん、わん


 後ろの方から、犬の鳴き声がする。それは1つ、2つと増えていく。

 本能的に危機を感じたレオンは、横にいるセオドアを連れて、林の奥に見える巨木の洞に隠れた。徐々に鳴き声のせいで、川のせせらぎも、風が葉を撫でる音が聞こえなくなっていく。


 耳鳴りがするほど大きく、うるさい鳴き声を発しているのは——犬型のネブラだった。

 赤黒い肉塊で犬の形を象っているそれは、犬の顔に当たる部分に真っ白な歯が生えている。ただその歯は象の牙のように太く、口の外にまで突き出ていた。あんなもので噛まれたら終わりだ。ここから見ても、ざっと20匹はいるだろう。皆そこそこの大きさで、鳴きながら探している。ここに隠れている自分たちを……

 近場にネブラがいなくなったことを確認すると、2人は小声で話始めた。


「なんだよあれ……犬型なんて初めて見るぞ」

「あぁ、くそっ。なぜ気づかなかったんだ私は……ここはアポロンの姉、狩猟の女神アルテミスの聖域だ」

「アルテミス?」

「森は彼女の聖域なんだよ。それと犬ということは、恐らくアクタイオーンの話が元にある」

「あくた……なに?」


 何も知らないのかと、セオドアはため息をこぼした後に、小声でそっと語り始めた。


「アクタイオーンという男が、自分の猟犬50匹と狩りをするため森に入ったんだが、たまたま沐浴中のアルテミス見てしまった。怒った彼女は、彼を鹿に変え、それを猟犬に喰わせたという話だ」

「理不尽の極みすぎるだろ」

「ちなみにアクタイオーンは、アポロンの孫だ」

「身内にも容赦ねえ!」


 レオンにとって女神とは、美しくて包容力のあるお姉さまというイメージが強いため、この話に大分ショックを受けていた。それをセオドアに悟られないよう、レオンは話を切り替える。


「その話がモチーフになってるなら、あの犬モドキ、50匹もいんのか?  だったら早くここから抜け出す方法、考えないとだぜ?」

「君に言われなくともわかっている。ヒントを探さなければならないな……この状況だと厳しいが」


 あのネブラたちが、今どこにいるのかわからない上、散弾銃の弾丸は50匹を仕留められるほど多くはない。せいぜい10匹を狩るので精一杯だろう。どこへ行けばわからないのに、ヒントもなにもない。探しに行くとしても危険すぎる。

 何か解決策がないか、必死に目を凝らしていたその時、レオンの瞳にある物が写った。


「あれ……?」

「なんだ君、どうかしたのか?」

「いや、あのミツバチ、なんか様子が変だなって」


 彼らが隠れている巨木、その数メートル先に蜜蜂が一匹ぶーんと羽音を鳴らしていた。彼が違和感を感じたのは、ミツバチの目が、自分と合った時である。人間の彼らに警戒する様子をみせず、ミツバチはただこちらを見つめながらやってきた。

「虫くらい、森のなかにいるものだろう」とセオドアに言い返されるだろうな、レオンは自嘲気味に笑いながら、そう思ったのだが……


「それだ! あのミツバチを追いかけるぞ!」

「……は?」

「アクタイオーンの父、アリスタイオスは養蜂の神なんだ。脱出方法と関連があるに違いない! ふふ、あんな小さな物が見えるなんて、君の視力は相変わらず本当に凄いな、僕も欲しいくらいだ」


 昔のセオドアだ。今のように高圧的な態度ではなく、屈託のない笑顔を浮かべて、純粋に人を褒める。その純粋さ故に、爆弾発言を落とすことも多いのだが、レオンは彼の、そういう素直さが好きだった。もう見られないのかと思っていたのに……

 セオドアも気がついたのか、驚きと羞恥のあまり一瞬にして顔が真っ赤に染まる。


「お前……今僕って」

「今のはただ間違えただけだ。深い意味などない……そんなことより、あのハチを追いかけるぞ」


 よほど顔を見せたくないのか、セオドアは先に洞から出ていってしまった。慌ててレオンもその後を追う。彼が出るのを見届けると、ミツバチはまるで先導するかのように、2人の前を飛んでいった。

——その時


わんわんわんわん!


 右後ろからあの忌々しい鳴き声が聞こえた。数十匹はいるネブラが、そこかしこにいるのだ。気づかれるのも時間の問題だった。ミツバチのスピードが上がる。

 その後ろにいる2人も、見失わないように目を凝らしながらハチを追いかけた。後ろに迫るネブラの鳴き声が、どんどん、どんどん増えていく。近づいていく。木々の枝が体にあたりかすり傷を作っても、2人は痛みに気づかないほど夢中で駆け抜けた。そして、それは見えてきた。


「なんだあれ!? なんか、像が建ってんぞ!?」

「このまま像の後ろ側に回り込め! 神話通りなら、ここで終わるはずだ!」


 目の前に見えたのは、森とは大違いの岩場。そして、弓を持ちマントを羽織った美丈夫の銅像と、その奥にある洞窟だった。洞窟内は真っ暗で、まるでそこだけ黒のペンキで塗りつぶされたかのようだ。ミツバチは洞窟へ向かっている。

 これで正解なのか、そうではないのか、考える時間も余裕もなかった。


「うおおお!」


 咆哮を上げながら、洞窟内に飛び込む。それと同時に、犬型ネブラの大群が森を飛び出してきた。まっすぐこちらにむかって来ている。

レオンは緊張のあまり、呼吸が荒くなっていくのを感じた。散弾銃に手を伸ばし、戦闘に入ろうとしたのだが……


くぅ~~~ん、くぅん、くぅ~~ん


 ネブラは彫刻の前で止まると、甘えた声を出して、銅像の足に体をこすりつけ始めたではないか! 目の前の状況が理解できないレオンは、セオドアに尋ねた。


「アクタイオーンの話には続きがある。猟犬は主人を殺したことに気づかず、彼を探し続けた。それを哀れに思った男が、彼によく似た銅像を作ったんだ。それを主人だと思った犬は、無事に元気に……って君、どうして頭を抱えてるんだ?」

「なんでもねえよ!」


 レオンは昔から大の犬好きである。特に「人間と犬の固い絆」系にすこぶる弱かった。

(だめだ、あれはネブラなのに……庇護欲が!!)

 レオンが一人、涙腺と庇護欲と戦っている間に、銅像とネブラが透明になっていき、やがてすうっと完全に消えた。主人と忠実な猟犬は、今度こそ共に居られたのだ。

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