第3話
苦しい。
寒い。
それは、真冬の川に頭を突っ込まれたような苦痛。それと同時に、何やら焦げ臭さを感じた。何かが燃えているものではなく、どちらかといえば、くすぶっているときに漂ってくる臭い――。
眠りについていた意識が浮かび上がってくる。
目が覚めて感じたのは、苦しさと寒さ。呼吸ができず、役はせき込む。どうして。自分まで高山病にかかってしまったのか。最悪の状況が脳裏をよぎった。
だが、違った。室内に目を向けてみると、灰色に曇っている。煙が充満しているのだ。発生源は暖炉。
――火が消えている。
思いついたことを言葉にしようとしたが、かすれた音が出るばかりであった。
暖炉を注視すると、燃え残っている薪が見える。燃え尽きたわけではないということは、何らかの原因で火が消えてしまった。
煙突が埋まってしまった。
それを悟った役は、寝袋から這い出る。立ち上がるが、酸欠の体はふらふらとした。倒れそうになりながらも、窓に近づいていく。
窓は真っ白だった。雪が降っているわけではない。降り積もった雪が、壁のようになっていた。暖炉のことを考えるに、煙突まで積もっているのではないか。嫌な予感がしたが、雪をどかさないわけにはいけない。このままでは、一酸化炭素中毒で死ぬかもしれないのだ、迷っている時間はなかった。
その辺の椅子を手に取って、白い壁に突き刺す。引き抜くと、粉のような雪があたりに舞った。積もったばかりのようで、崩すのはそれほど難しいことではない。煙の中という状況を除けば。
動くだけで息が切れる。冷汗が噴き出し、平衡感覚が乱れてしまったかのように、視界がグラグラと揺れた。その上、どこまで掘ればいいのかわからない。それでも、役は腕を動かし続ける。
こんなところで死んでなんかいられない。遭難して死ぬというならまだしも、山小屋の中で死ぬなんて御免だ。
窓から身を乗り出し、上方向へと椅子を突き刺しては抜く。
不意に、手ごたえが軽くなった。同時に、光が役の目を焼いた。冬の朝日はぼんやりとしていたが、今の彼女にとっては痛いほどに眩しく、喜ばしいものであった。
風が空気が流れ込んでくる。肺一杯に吸い込んだ新鮮な空気は、味覚がないにもかかわらずおいしいとさえ感じられた。
酸素を体全体にいきわたるように深呼吸した役は、そこで周囲の状況に目を向けた。
昨日、吹きすさんでいた吹雪はどこへやら。雲さえもなく、遠くには地平線からお尻を出そうとしている太陽の姿がはっきりと見える。積もり積もった足元の雪がなければ、昨日のことなど嘘か幻のようである。だが、まぎれもない事実だ。背後を振りかえれば、雪からちょこんと顔を覗かせている、赤い屋根の先端が見えた。子どもが置き忘れていった積み木のように見えなくもなかった。まさか、屋根まですっぽり埋まってしまうなどとは、この小屋の持ち主も思わなかっただろう。役だって考えもしなかった。
降雪によるものなのか、上から雪崩がやってきたのかはわからない。どちらにしても、倒壊しなくてよかった。小屋が破壊されていたら、押しつぶされわずかな酸素だって吸うことはできなかっただろう。まず間違いなく死んでいた。
背中に寒いものを感じた役は体を震わせながら、煙突のあった方へと歩く。煙突はすっかり埋もれてしまっていたが、少し掘り出すだけで姿を現わした。細いパイプの中にまで雪は積もっていたが、暖炉に火を入れたら、融けてしまうだろう。もちろんその前に、空気の通り道を作らなくてはならないが。
「そうだ。アイツは」
高山病に罹ってしまったあの登山家は大丈夫だろうか。役は、急いで山小屋の中へと引き返した。
小屋に戻って、登山家に近づく。登山家は毛布にくるまったまま、動かない。まさかと役は心配になった。だが、胸のあたりが動いているのを見て、役は胸をなでおろす。
とりあえず生きているようでよかった。
登山家の容態を確認した役は、外へと戻る。とにもかくにも、建物の周りの雪を取り除けなければ。
******
除雪作業が終わり火を熾した頃には、日はすっかり上がっていた。腕時計を確認すると、午前九時を回ったところだった。
やっと落ち着けると、役は安堵のため息をつく。ちょうどその時、暖かくなってきたからなのか、背後で物音がする。振りかえれば、登山家が起きようとしていた。体を起こした登山家はぼんやりとした様子で、役のことを見ていた。先ほどまで生命の危機に瀕していたことなど、知りもしない。気づいてすらいないだろう。……別に怒りたいわけではなかった。役が抱いていた感情はむしろ逆のものだ。
「体調はどう?」
「……大したことはないよ」
乾燥した声ののちに、大きく咳き込む。先日よりは軽くなっているようにも見えたが、高山病は再発の恐れがある。
だが――。
役は窓の外へと目を向ける。出入口代わりとなっている窓の周辺はクレーターのように雪が削り取られていた。たっぷり一時間かけた集大成である。窓から見える雪は、穏やかな日光を浴びて宝石のように輝いている。
しばしの間、輝きながら融けていく粉雪を見つめていたが、登山家の方へと向き直る。その表情は、覚悟を決めたような表情であった。
「これから頂上を目指してみない」
******
準備に時間はかからなかった。
だがやはり、登山家の容態は芳しくない。歩くのがやっとという状態であった。こんな容態の人間とともに登頂を目指すなど無謀の極みだ。だが、やってみたかった。もちろん、無理強いするつもりはない。相手が拒否したら下山をするつもりであったが、そうはならないであろうという直感が役にはあった。実際その通りであった。
登山家は登頂に意欲を見せ、すぐさま頂上を目指すこととなったのだ。
二人が登頂を予定していた山は、ここらの連峰の中で一番高い山である。高さは三千メートルを超えているものの、途中まではバスも通っており、夏季は登山客だけではなくハイキング客やロッククライマーも多く見られる。だが、厳冬期には、相当なスキルがなければ登頂は厳しい。基本的には難しくはないのだが、部分部分に難所があり、また、細い道も多く滑落や雪崩の事故が後を絶たなかった。
そんな山へ病人と赴かなければならない。普通なら、やろうとしなかっただろう。
登山家の言葉を耳にしなければ、どうしてこんなことをする。彼女自身、どうして自分の正体を離そうともしない人間の手伝いをしているのかわからなかった。
肩を貸すようにしながら、新雪を踏みしめていく。ゆっくりゆっくりと足場を確かめるように。降り積もった雪は尾根を覆っている。脚を下ろすべき尾根の場所が分かりにくいのだ。ヘタに歩けば雪庇の上を歩くことになり、最悪の場合は崩れた雪とともに滑落することとなる……。視界が悪かったら、遭難のリスクもあったが、雲一つない好天ではそれは杞憂だった。
自分一人のスキルであれば、何の問題もない。登頂自体は簡単。
肩を貸している、登山家がいなければ。
「どうして助ける」
「さあ。私にもわかんないわ」
「わからないって、そんな理由で命をかけて」
「私でもバカみたいって思うわ。……まあアンタの命がけの気持ちに負けちゃったのかしら」
「…………」
見られているような気がして、役は視線を先へと向ける。上り調子の稜線の向こうには、白化粧が施された槍のような頂が顔を覗かせようとしていた。あれが、目的の頂。
「僕は人間じゃない」
「はあ? いきなりなに言ってるのよ。酸素不足で頭でもおかしくなっちゃった?」
「ははっ……。あの写真を見た時から頭がおかしくなっていたのかも」
「意味わからないんだけど」
「僕が、人魚だといったらどうする?」
「人魚って感じには見えないけれど」
登山家には背びれもなければ尾びれもない。役のイメージする人魚からはずっと遠い見た目だ。
「歩ける人魚だっている」
「魚面ってこと?」
「…………」
「マジ?」
登山家が頷いた。魚面だから、ゴーグルとかフードフェイスマスクといった装備を外そうとしなかったということか。それらの下にある顔とは一体どんな感じなのだろう。魚の頭から人の脚が生えているところを想像して、役はうめき声を上げた。気持ち悪そうな声を隠そうともしない役に、登山家が肩を揺らす。
「魚っぽいだけで魚そのものなわけではないですよ。かなり似ている人もいますけど、大体は人間に近いです」
「なんだ。それならゴーグルを外したって」
「いいんですか」その言葉に、役はドキリとする。「やっぱり人間とは違いますからショックを受けますよ。いや似ているからこそ、ショックを受けると思いますけど……」
「そ、そうなの。じゃあやめておこうかな」
「それがいいと思います」
「でも、どうして、山に?」
「えっとそれは」
登山家が体をもじもじ動かす。笑わないから、と役が言うと、ためらいながらも話し始める。
「僕は、海に漂うものを拾うのが好きで。親からは恥ずかしいから止めなさいって言われてるんですけど」
「漂ってるものって、ゴミとか」
「ゴミなんですか?」
「……魚人だかなんだか知らないけど、人間の恥ずかしいところなのよ」
「でも、僕にとってはゴミじゃなかったんです。そこで写真を見つけたんです」
登山家は咳き込みながら、ポケットに手を伸ばす。その中から取り出されたのは、一枚の写真。濡れてしまってくしゃくしゃになった写真は、カチコチに凍る。濡れてしまったからか、茶色に変色してしまっていたが、それはまさしく山を捉えたものであった。写真はプロの手によって撮られており、色褪せボロボロになっていても、白とグレーで構成された山の威容は少しも失われていない。
そして、その写真の山と、目の前に聳える山は寸分たりともたがわない。
役が登山家の方を見れば、その顔が縦に動く。
「その写真を見た時、綺麗だって思ったんです」
確かに、その写真からは山の険しさと荘厳さが感じ取れた。だが、役からすると、それほどのものかと首を傾げる。だが、役は登山を行う中で、山というものに見慣れている。対して、魚人というからには海の底にいた存在からすれば、マリンスノーというものはあれど、ふわふわの雪なんて見たことがないだろう。青い空に向かって突き出した岩肌も、海底から伸びるそれとは見た目も材質だって違うのだから、受ける印象だって当然違う。
だから、役は「そうかもしれないわね」と呟くにとどめた。
「僕、スカイって言うんですけど、元人間だった父さんが唯一覚えていた言葉なんです。どういう意味か知ってます?」
「……元人間ってところには突っ込まないでおくとして、スカイねえ」
英語と捉えるなら空という意味になるし、日本語ならば、山の名前かもしれない。というか、日本人である役からすると、後者の方がなじみ深い。
「山の名前よ」
「そうなんですか! いやあうれしいです」
「いや、私が適当言ってるだけだから。っていうか直接聞けばいいじゃない」
「聞けません。父はいけにえとして捧げられましたから」
「…………」
「気にしないでください。人間とは文化が違うってだけです。こっちではそれが当たり前というだけ」
「寿命ってまさか」
「違います。いや違わないか。病気なんです。てきおうしょうがいってやつなのかな」
スカイが口にしたのは、一介の登山家である――いや、医者や生物学者も一緒かもしれない――役には理解のできない話であった。生物学とオカルトの間を反復横跳びをするような話に、役の頭は今にも酸欠状態になりそうだった。最後に、海中生活に適していないってことらしいです、というようやくだけは何とか頭に入った。
「それで、死んだらいけにえとして捧げられるんです。でも、その前に一目山を見ておきたかったから」
「それで来たってわけ」
「はい。すっごく大変でした。登山道具ってやつを探して、ここまで歩いてくるのも」
魚人が街を歩いて、登山道具を探している姿はなかなかにシュール。というか通報ものだ。同じタイミングで登山を開始したとしたら、地上にいた時に、騒ぎになっていないとおかしい。だが、普段は会社員としてデスクワークに勤しんでいる役も、半魚人出没のニュースは耳にしなかった。
そのことを質問すると、変装してますから。
「でも、この格好で街を歩いていたら不審がられたんですけど」
「街中だったら目立つでしょうね」
冬だからといって、登山ウェアに身にまとった人間は目立ってしょうがない。のっぽなリュックサックは、大きな古時計を背負っているかのよう。
それからも、スカイはこの山にたどり着くまでのことを話した。金塊で支払おうとしたら、びっくりされたとか。雨が降ってきたことに喜んで傘もささずに回っていたら、視線が集中したとか何とか。人間である役からすれば当然のことであっても、魚人であるスカイからすれば違うのだ。
「それで、やっとのことで来たんですけど。それからがまた大変で」
「山登りなんてしたことからか」
「ええ。重力っていうものは水圧よりも弱いから耐えられましたけど、陸上で動くのってこんなに疲れるんですね」
その声はしわがれている。言葉遣いと、声からイメージする年齢とは乖離している。ずっと気になっていたことだが、役には見当がついた。魚人は水生生物。水の中にいないと乾燥してしまうのだろう。登山ウェアが潤っていたのは、陸上で活動するため。だとしたら、こんな極寒の場所は、彼にとっては最悪の場所だ。寒さによって空気は乾燥し、水はたちまち凍り付く。
「水なんてないけど大丈夫なの……」
「大丈夫とはいえませんけど、水を補給する方法はあります」
どうやって、と訊ねても、スカイは曖昧に微笑むばかりであった。そういえば、山小屋にいた時、スカイの登山ウェアは濡れていた。部屋は暖められていたにもかかわらず。あの時は、付着した雪が解けたからだと思っていたが、実際は違うのではないか。だが、どうやって?
悶々とした気持ちにはなるものの、一つだけわかったことがある。
「アンタは高山病じゃないわ」
「そういえば、その高山病って?」
「……やっぱり知らないのね。簡単に言えば、酸素が足りなくなる病気よ」
酸素が低い環境になじめずに罹患する病気だが、スカイの話を聞く限り、地上でも呼吸ができるようである。当然ながら水中でも呼吸が可能。ただ、魚人だから地上での呼吸は苦手だろう。もしかしたらだが、地上での生活そのものが、高地順応の代わりとなったのではないか。
しかし、実際問題として咳き込んでいる。その理由はなぜなのか。
「水の中にいた時から咳してた……ってわけじゃないわよね」
「いえ、咳はこの山に来てからで」
ふむ。と考え込む。理由が思いつかないわけではなかった。水中に生息していたならば、高い気圧に慣れていたと考えられる。水上付近までやってきていたということはそこまでは日常的に体験していた。だが、高度三千メートルともなれば、地上よりも気圧はずっと低い。スカイが体験したことのないほどに。
つまり、減圧症にかかっているのではないか。これはあくまで推測だった。高山病に詳しい役も、減圧病もしくは潜水病には詳しくない。専門機関に調べてもらわないと何とも言えない。もっとも、魚人専用の病院というものがあれば、の話だったが。
「引き連れてきて言うのもアレだけどさ、戻った方がいいんじゃない」
「だ、ダメです。登りたいんです。絶対……!」
声には力がこもっていなくても、言葉には気迫がみなぎっていた。決意は、山小屋で訊ねた時と変わっていない。いや、増してさえいた。
そう、とだけ返した役は、目の前へと視線を戻す。これ以上、スカイの心配をするのはやめた。異種族だからとか、彼に好意を寄せていたからというわけではない。ただ、同じ仲間として心を動かされた。それだけだ。
支える腕に力がこもる。不思議と力があふれてきた。
目的の山の手前には、最大の難所がある。大切戸と呼ばれる場所で、夏季冬季限らず、事故が多発する区間だ。滑落と落石の危険性が伴うV字型の岩稜帯で、冬季においては雪崩も起きやすい。ただ、近年では整備が進んでおり、ルートも確保されているために、熟練者からすればそれほど難しいものというわけでもない。それでも事故は起きているのだが……。それに何より、不安材料は新雪がどっさり積もっていることと病人を連れていること。後者については考えないとして、問題は前者だ。現在時刻はもう少しで正午になろうとしている。白銀の世界は日の光によって、輝きを放っている。暖められた雪が緩くなっていてもおかしくはない。
慎重に慎重を重ねながら、灰色と白の壁をジグザグ降りていく。岩交じりの斜面は、滑落の危険が高い。下り坂なら特に気を遣う。足をかけたのが凍っていたら、しっかりとアイゼンを食い込ませなければ滑ってしまう。岩ならば、動かないかどうかを見定める必要がある。その上で、スカイを支えなければならない。体力的にも精神的にも、苦しくなってくる。
だがそれでも、気合で体を動かす。幸いなことに、気力だけは充実していた。
V字の根元までは何とか降りることができた。ここからは岩場を登っていく。垂直に近い岩壁には、雪はほとんど積もっていない。ただ、氷がまとわりついているところもあり、下手をしたら足を滑らせてしまうかもしれない。落ちてしまえばひとたまりもない。
「僕も……」
「無理はしないで」
スカイを先に進ませる。怪我人を――それも、ルートを知らない人間を――先に進ませるのは気が進まなかったが、押し上げるならこっちの方がいい。もちろん、先を行くものが落下したら巻き込まれる可能性もあったが、それは承知の上だ。
風一つない世界に、二人の荒い息遣いが響く。アイゼンが岩とぶつかりこすり、音を上げる。
青空の境界線へとどこまでも伸びているかのように思われる壁。その出っ張りに手を伸ばし、動かないことを確認して、力をかける。次のでっぱりへ。さらにその先へ……。
ぐらり。
体が傾く。動かないだろうと思って足をかけた石が動く。踏みしめた脚が石を蹴り飛ばし、足場がなくなる。急いで蹴りだした脚は、岩肌をカリカリとひっかくだけ。バランスが崩れる。それでもでっぱりを掴んでいたなら、大事には至らなかっただろう。だが、今の役は、判断力を欠いていた。急いていたことに付け加え、スカイの体を押し上げようと片手を伸ばしていた。
そして、乳酸のたまった片腕では、出っ張りを掴み続けることはできなかった。
指が、岩から離れる。スカイは気が付かないだろう。役が滑落したことに気が付くのは、これから数秒後、肉が岩場に叩きつけられひしゃげ内容物をぶちまけ終えた後。下を覗き込んで、ようやく理解するのだ。
どう思うだろうか。――ゆっくりゆっくりと落下していくような感覚。これが走馬灯というやつなのだろうか。だが、役の頭の中を流れていくのは、時の流れよりもずっと速い、電気信号による思考だ。壊れたマリオネットのように、四肢をてんでバラバラな方へと放り出し、血だまりに沈む自分を見た時、スカイはどう思うだろう?
私が死んでしまったら、これからスカイはどうするのだろう。
願わくば、無事に登頂を――。
海老反りのような体勢で、役の体は岩盤から離れていく。そして、足さえも離れる。
――仰向けに落ちようとしていた役は目を見張った。
気が付くはずのないスカイがこちらを振り返り、腕を伸ばす。低速の視界の中で、彼の体だけが高速で動いていた。
ゴーグルの向こうの目が落下する役をしかととらえる。フェイスマスクがゆるりとほどけ、そのうろこばった口元が、叫ぶように動く。
腕が、役を掴もうと伸ばされる。
役も、腕を伸ばす。思考とか、相手が人間じゃないとかは全く関係ない。生きたいという意思が、役をそうさせた。
時が動き出し、宙ぶらりんの役の体を風が揺らす。
「だ、大丈夫ですかっ!?」
食いしばるような声が頭上から降ってくる。苦しそうだ。どうしてそこまでして、私を助けてくれるのだろう。――役はぼんやりと考える。やってきた彼の手をとったのは、ほとんど反射的なものであった。遅れて働いた理性はこんなことをしても無駄だと説いていた。
手を取ってどうする。相手は人間ではないとはいえ病人。いつまで力が持つかわかったものではない。このままでは、スカイまで巻き添えになってしまう。それなら一人で――。
「聞いてますか! 腕を伸ばしてくださいっ!」
役は、スカイを見上げる。手はしっかりと握られていて離れることはない。スカイが手を離すまでは。
「…………離して」
「どうしてそんなことを言うんですか。死にたいんですか!」
「そんなことないわよ! でも、そうするしかないじゃない……」
「決めつけないでください。僕だって男なんですから」
苦痛交じりの声が、山々の間へとこだましていく。役は虚を突かれた。どうして。シンプルな疑問が頭の中に浮かぶ。
答えは思いつかないまま、役の体は少しづつ少しづつ、岸壁へと近づいた。間近にまでやってきたところで、役は壁にとりついた。
スカイの荒い呼吸音がはっきりと聞こえる。役は、見上げることができなかった。
「どうして……助けたの」
「どうしても何も死にそうな人をほっとけますか」
「自分が死ぬかもしれないなら、見捨てるかもしれないわ」
嘘だ。少なくとも、この場この状況においては、スカイが滑落したとしても腕を伸ばしたに違いない。そこに、シビアな判断だとか合理的な理性などは存在しない。むしろその反対のものに突き動かされるのだ。
スカイは、声を出す。それはしわがれていても笑っていると理解できた。
「……笑わないでよ」
「ご、ごめん。いつも一人でいたのかなって思って」
「そうよ。私は一人で登ってたわよ」
役は遠くへと視線を投げる。向こうには、緩くカーブする山々の姿が見えた。ずっと遠くには、この国最高峰の山がどっしりと裾野を広げているのがよく見えた。
誰にも語ったことのない話。そもそも語るほどの友人もいない。家族にだって、話したことはなかった。登山という無意味で危険な行動に理解を示さないからだ。
かつて、役にも登山仲間というのは存在した。そもそも登山を始めたきっかけが、大学で無理やり入部させられたワンダーフォーゲル部なのだ。初心者の時期はあり、一人に固執することなく、みんなで登山を行っていた。だが、役は物足りなくなった。もっと早く。もっと高い山へ。挑みかかるように登っていく役は楽しかったし、そうしていたら、体力も増していた。部員が追い付けなくなるほどに。
そして、役は一人となった。和気あいあいのんびりゆったり鳥を眺めながら歩く彼らにとって、役は疲れと面倒ごとの根源だったからだ。もちろん、ゴン買いには言い出さなかったが、そのような雰囲気によって部は崩壊の危機となった。それを察した役は部をやめたのだ。
「それからずっと一人」
心の中の泥を吐き捨てるように、役は語った。誰にも打ち明けたことのない話。恥ずかしいと同時に、なんとなく解放感のようなものもあった。
スカイは咳き込みながら上へ手を伸ばす。
しばらくの間、無言で登り続ける。
「僕も同じ」
「同じって?」
「一人ってこと。僕も一人で、山までやってきたから」
「そう……」
「うん。だから死なないでほしい」
役の手が止まる。見上げると、スカイは先へ先へと進んでいく。今回は止まろうとしない。落下したとは思わないのだろうか。
再び、登頂を始める。
「まさか死にかけの奴に、そんなことを言われるなんてね」
「そっちだって、たった今死にかけたくせに」
誰からともなく、笑い声を発する。それはハーモニーとなって、V字の谷へと響き渡るのだった。
岩を登ると、難所は終わりだ。後は狭い尾根を慎重に歩いていくだけだ。
そして、ついにたどり着いた。
ちょっと開けた場所。雪になかば埋もれた祠。こここそが目的地。
目指していた山頂。
「や、やった」
「着いたのね」
歓喜の声は控えめだったが、喜びに満ち溢れていた。リュックサックを下ろし、岩場に座り込む。息はすっかり上がっていた。こんなに疲れたことは一度だってないだろう。真冬のアルプスで遭難しかけた時よりもずっと疲れた。だが、同時に高揚感と達成感があった。一人では決して得られなかっただろう感情。言葉にせずとも、スカイの笑い声を聞いているだけで、喜びを共有できた気がした。
スカイは喜びのまま踊るように数歩歩き――崩れ落ちた。
「スカイ!?」
役は慌てて駆け寄る。うつぶせの姿勢そのままでぜえぜえと息をしている。ゴホゴホと咳き込むと、赤の飛沫が飛んでいく。白い雪が血に染まる。
症状が悪化している。このままでは――。
登頂は達成したのだから、今すぐにでも山小屋へと引き返そう。そういえば、今なら衛星電話で山岳救助隊に連絡をすることだって。
リュックサックの方へと戻ろうとした役を、スカイが掴む。
「ぼ、僕はもう」
「なんでそんなことを言うの。アンタが私の命を助けたんでしょ! 私に死ぬなって言ったの忘れたの」
「忘れてないよ。でももう、わかるんだ。体が冷えて、動けない。動けないんだ」
「諦めないでよ! 動けないってなら、私が背負っていく。こっから先は難所も少ないし。そうだ電話をかけることだって」
「ううん。間に合わないよ」
「そんな……!」
役は膝をつく。そんなことがあっていいのか。やっとここまで連れてこられたというのに。生きて頂上までたどり着いたというのに、ここで死ぬだなんてあんまりではないか。
そのような無念とともに、役の拳が岩へと叩きつけられる。痛い。手よりも心が痛かった。
そんな役の手を、震えるスカイの手が包み込む。その手は、二人分の体重を支えていた方の手で、手袋はボロボロとなっていた。魚のうろこのようなものがついた手と、鋭いかぎづめが見える。
「僕はここで死ぬ運命なんだ。でも、最後に、この光景が見られてよかった」
スカイの首がゆるりと動く。
周囲には何もない。ここがあたりで一番高い山で、ほとんどの山が見下ろせた。雪化粧をした険しい山々が、青い空めがけて突き出している。山々の根元へと視線を向ければ、徐々に緑が増えて、白と灰色が少なくなっていく。森が広がり、最後には文明の光が見える。そして、遠くの方には母なる海。
スカイが住んでいた海が、日の光を浴びてキラメキを放っている。
ここが山頂。スカイが写真で見て、恋焦がれた山の頂。
「あなたにお礼がしたい」
「私は」顔を背けながら、役が言う。「私は役照子よ」
「役さん。これを」
スカイが懐から取り出したのは、金の塊。金の延べ棒ではない。ごつごつとした、石のような形をしている。ゴロゴロとしていて、メッキ加工されたジャガイモのようにも見えなくもない。
受け取ると、ずっしりと重い。ほのかに潮の香りがした。
「これは……?」
「金塊ってやつです」
「どうしてそんなものを」
「通貨っていう感じなのかな。それに綺麗じゃないですか」
「どうして渡すのかって聞いてるの」
「僕にはもう必要のないものですから」
役は、何も言えなかった。彼の言葉から力が抜ける。雪面には血だまりができようとしていた。彼の寿命の炎が消えようとしているのは明らかだった。信じたくなかったが、受け入れるしかない。今の役にはどうすることもできない。顔を背けて、涙を見せまいとすることしかできないのだから。
金の塊を受け取った役は、ありがとう、とか細い声で呟く。こちらこそ、という笑い含みの声が返ってくる。
――ああ、最後に誰かと一緒にいられてよかった。
言葉が風に舞って、天高く昇っていく。
スカイの冷たく湿った手が、役の手に触れ、そして地面へと落ちた。
雪の舞う音に、役は息を呑む。
横へと背けてしまっていた顔を、スカイの方へと向けたくなかった。向けられなかった。そうしてしまえば、スカイがどうなってしまったのか――終わりを迎えてしまったのか、わかってしまう。
いや、確認しなくても、役にはわかっていた。
スカイは死んだのだ。寿命によるものなのか、山を目指したからなのかはわからない。そんなことは、今となってはどうでもいいことだった。
ゴーグルを外した役は、何も言わず目元を拭う。
ここに死体を放置するわけにはいかない。しかし、通報するわけにもいかなかった。彼は魚人で、人間からすれば異質の存在なのだ。人間の理の外の存在である彼は、ある種の人間からすれば興味深い存在だろう。研究材料にされるかもしれない。――そんなことがあり得るかどうかはさておき、スカイを、この山から引き離したくはなかった。
スカイは、この山を目指してやってきたのだから、この山に埋葬してあげたい。
役は、ピッケルを手にする。できるだけ早くしなければ。いつ、人が来るのかわからない。言い訳のしようなどないのだから。
いつからかわからないが、その山の頂には、ピッケルが突き立てられていた。誰のものかはわからない。誰かが置き忘れていったのかもしれない。それにしては綺麗に突き立てられており、何かの目印のようにも見えたが、真相はようとして知れない。
そこには、異形の存在が眠っている。
『登山家』としてはじめて得た友がそこに眠っていることを誰も知らない。
20XX年、山小屋での遭遇 藤原くう @erevestakiba
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