三の七 落花狼藉

 洗濯したばかりの白布が掛けられた寝台に腰を下ろし、アレイアは今日だけでも何度目かわからないため息をついた。

 原因は言うまでもない。数日前、突然現れた鎮墓獣と、それを一人で、しかも無傷で倒した常識外の男だ。


 魔が差した。この男なら、あの千年髑髏を倒せるのではないかと。そう思ってしまった。だからつい、藁にもすがる思いで、死人花の煮汁などというものを飲ませてしまった。中毒にさせ、解毒と引き換えに倒させるつもりで。もし急性中毒を起こすようなら、解毒どころか命の恩人にもなれると。

 男の目的も、人柄も、何も知らずに。


(じゃあ、もし私が助けてって言ったら、助けてくれる……?)

(当ったりめえよ)


(俺はただ、死人花の葉やら粉やらを売りさばいてる連中を地獄に送ってやりてえだけよ)


 他人の苦衷くちゅうに迷わず飛び込む男のかおと、だからこそ他者を食い物にする悪党を決して許さない怒りの貌が、今なお鮮やかに脳裏に浮かぶ。欲が人を殺し、金が人を殺すこのスーリ九ヶ国に、まだあんな男がいるとは夢にも思わなかった。


 途端に、酔いが醒めるように頭が冷えた。自分はなんという真似をしたのだろう。どんな男かわかっていれば、あんなものを飲ませたりはしなかったものを。

 だからせめて、自分にあしらわれるようでは千年髑髏には到底勝てないことを理解してほしかった。おとなしく帰ってほしかった。

 ……ところがだ。


 男が幻の犬たちと戯れ、眠りの魔法で意識を失っている間に、渇いた喉を潤そうと台所へ行った。一息ついて、あのままじゃ風邪をひくかもしれないから毛布くらい掛けてあげよう、そう思ったところで、怒りに満ちた笑い声が響いて何か固い物を床に叩きつける音がした。


 目覚めるのが早すぎる。いや、それより、ここに居ると気付かれたら何をされるか。慌てて魔法で姿と気配を消し、息を潜めた。幸い男は気付かずに出て行ったが、それでも気になってそっと後をけた。

 男は何事もなく家を一周して終わる、と思いきや。動物並みの嗅覚なのか何なのか、死人花の畑に気付いてしまった。


 ――彼、絶対、私があいつの一味だって思ったわよね。

 ため息がまた出る。しかし間違ってはいない。命惜しさに千年髑髏に隷属し、多くの人が不幸になると承知で花畑の世話をしているのだから。


 ――そのうち、私を殺しに戻ってくるのかしら。

 心のどこかで、それでもいい、と思う。千年髑髏に逆らって殺されるのは恐怖しかないが、自分たちのせいで不幸になった人たちの苦しみと怒りを背負ったあの男になら、それはむしろ償いになるのではないだろうか。

 ただ、殺される前に、あれを飲ませたことだけは謝っておきたいが。


 アレイアが物思いに耽っていると、不意に、玄関の戸を叩く音がした。

 もしかして、彼が戻ってきてくれたのだろうか。淡い期待を胸に玄関まで出て行き、扉をあける。


 そこにいたのは、できるなら二度と見たくない顔だった。

 茶色の髪を後ろへ流し、口元から顎にかけての髭を綺麗に整えた一見色男。

 エスキロスが、軽薄な笑顔を浮かべて立っていた。


「いつ帰ってきたの……?」

 顔が青ざめるのを自覚しつつ、固い声でアレイアは尋ねた。

「昨日、いや、一昨日かな。本当はすぐにでも来たかったんだけど、何かと手配しなくちゃならなくてね」


 やっと来られたよ、と言いながら、エスキロスは両腕を広げてアレイアに抱きつこうとする。掴まらないよう身を引くと、男の口からかすれた笑いが出た。

「つれないなあ。せっかく恋人が戻ってきたっていうのに」


 誰が、とアレイアは吐き捨てたかった。女の身体からだを自由にしたからといって、心まで自由にできているつもりなのか。

 ――誠実さが、何一つ感じられない。あの人とは、違う……。


 アレイアが唇を噛んだとき、この世の悪意を煮詰めたようなおぞましい声がした。

「サッサト入レ。私ヲ待タセルナ」


 その声を聞いただけで、アレイアの喉が押さえつけられたようになり、心臓が縮み上がったようになる。

 自分の身体にも、心にも、消えることのない恐怖を刻み込んだ邪剣・千年髑髏。今日もまた、エスキロスとともに、私の身体を食い物にするのだろうか。


 アレイアは俯いて、客間へと先導した。

「……入って」

 しかしエスキロスは中に入らず、アレイアの両肩を掴んで後ろを向かせた。

「違うでしょお? 僕らが入るのは、こっち」


 粘りつくような声で、後ろからアレイアを押す。その先にあるのは、ついさっきまでいた寝室だった。言いようのない悔しさに、アレイアが作る握り拳に力が入る。

 ――この男には、下衆な欲望しかない。あの人なら、こんな態度は絶対取らない……!


「離して!」

 目尻ににじむ涙を拭いもせず、アレイアはエスキロスを振りほどいた。面食らったエスキロスが、やれやれと言いたげに肩をすくめる。

「なんだい、今日はずいぶんとご機嫌斜めだね。……もしかして、僕がいない間、他に好きな男ができたかな?」


「そんなはずないでしょ」

 アレイアは言下げんかに否定した。そう、この感情は、敬意ではあっても恋愛感情ではない。それ以前に、エスキロスを好きだなどと思ったことはない。二重に的外れなことを言っているのだ、目の前の自己陶酔野郎は。


 一瞬、アレイアの脳裏から、エスキロスと六道以外の全てが消えた。反射的に、アレイアは体内の魔力を螺旋状に練り上げる。それをもって空間中の魔力と繋ぎ、縄をるように一つの大きな魔力を作り上げて物体に影響を与えるのだ。


 アレイアが縒り上げた魔力の奔流は、エスキロスを直撃し、生きている間に帰ってこられるかも判らないほど遠くへ飛ばす。そのはずだった。

 しかしそれは、途中で不自然にねじ曲がり、エスキロスが腰に提げた長剣へと吸い込まれていった。


 物音の消えた廊下に、くぐもったわらい声が響く。アレイアの中で恐怖が蘇った。

 なぜ、たった一瞬でもこいつを忘れてしまったのか。この邪剣は、魔力や生命力といった人の力を吸収して、自らの糧とするというのに。


「ヤハリ美味。シカシ、奴カラノ痛手ヲ思エバマダマダ足リヌ。えすきろす、サッサト部屋ニ連レ込ンデシマエ」

 エスキロスは、無言でアレイアの手首を掴んだ。痛みに顔をしかめ、抗議の声を上げるのを無視して、寝室に引きずり込む。アレイアはそのまま床に押し倒された。


 今さっきのように振りほどこうとするも、エルフの女と人間の男では腕力に差がありすぎる。やがてエスキロスの顔に、嗜虐しぎゃく的な笑みが表れた。

「まあ、あんまり従順でもね。適度に反発してくれないとたのしくないから」


 ふざけないで、と言いかけて、目から火花が散った。頬を叩かれたと気付くまで、わずかな時間があった。

 魔法が使えなければ、千年髑髏どころかこの男相手でさえ、暴力の前には抗えない。それに気付いてしまうと、反発心が急速に萎えていく。滲む視界の中で、エスキロスの笑顔が歪んだ。歪んだ瞳の奥に、怯えた自分の姿だけがはっきりと映る。


「いい顔になったじゃないか。僕はね、強気な女やお高くとまった女がを見せられた瞬間がたまらなく好きでねえ」

 エスキロスはアレイアから体を離すと、背中に両手を入れてうつ伏せにした。アレイアにはもう、これ以上抵抗しようという気は失せている。するなら早くして。早く終わらせて。ただ諦めだけがあった。


 鞘と剣身が擦れる乾いた金属音がする。直後、背中に鋭く熱い痛みが走った。傷口から、魔力や生命力が吸い取られていくのをはっきりと感じる。アレイアは痛みと死への恐怖で大きな悲鳴を上げた。


 荒い呼吸の中、アレイアは残った魔力と空間に満ちる魔力を縒り合わせて傷を癒した。それでも失われたものが戻ってくることはなく、ぐったりと倒れ伏す。エスキロスと千年髑髏の声が、やけに遠く聞こえた。


「満腹になったかい? そろそろ僕の番でいいよね」

「イヤ。折角ダ、モウ二本分ホド食ワセテ貰オウ」

 意識が朦朧としかけているアレイアは、力なく首を振った。

 ――やだ、やめて、これ以上吸われたら死ん……。


 声にならない言葉は途中で消えた。今度は続けて二つ、激痛が背中に走り、アレイアの喉から断末魔の絶叫がほとばしった。

 最後の力を振り絞って傷はふさいだが、もはやアレイアには、指一本動かす力も残されてはいなかった。ヒュウヒュウとかすれる呼吸音が出るのみである。


 ――だれか……。たす、け、て……。

 もはや思考も働かず、ただ脳裏に浮かんだのは、おそらく自分も殺すであろう強面の顔だった。それでもいい。こいつらにしゃぶりつくされて死ぬよりは、あの人に斬られて死んだ方が意味がある。


 アレイアの視界が天井を向いた。エスキロスが仰向けにしたのだろう。

「ああもう、やりすぎなんだよ。焦点が合ってないじゃないか。死んでてもおかしくないぞこれ」

「私ガコレマデ何度、コノ女ノ精気ヲ吸イトッタト思ッテイル? 精妙ナ加減クライデキルワ」


 千年髑髏の嘲笑する声を無視し、エスキロスが歩く音がした。なにかごそごそと別の音もする。

「アレイア、見てる? って、見えてるはずないか。これ、死人花の粉ね。お詫びに、これいっぱい使ってあげるからさ。煙をたっぷり吸っての大好きだもんね、君」


 寝室の隅にしつらえた、本来はランプを置く台座に、粉のようなものを流し入れる音がした。続いて、火打石と火打金を打ち合わせる音がする。火が火口ほくちから粉に移り、出てきた煙が見えた。


 どれほどの粉を使っているのだろうか。煙はもうもうと立ち上り、みるみるうちに部屋に充満していく。それはアレイアの鼻や口から体内に入り、感覚を狂わせる。

 わずかに残っていた思考力も、全てぼやけて消えた。背中に当たる感触は、固い木の床に敷いた絨毯ではなく柔らかな雲の上のようだ。


 誰かが近づいてくる。アレイアの顔をのぞき込む。見えたのは、助けてくれると力強く頷いたあの顔だった。


 ――きて、くれたんだ……。あのときは、ごめんなさい……。


 アレイアの口元が、かすかにほころぶ。流れる涙の理由もわからないまま、アレイアは身体の芯を貫く快楽に身を任せていった。

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