二の三 マンツィ、最後の手段を選ぶ

 窓から差し込む光もすっかり弱くなった薄暗い旅籠の一室で、マンツィは絨毯に胡座をかきながら父親譲りの黒い顎髭をしごいていた。

 年の頃は、初老(四十歳)をいくらか過ぎたあたりだろうか。黒い髪には白が混ざり始め、顔の皺は深々と刻まれている。年齢的には孫がいてもおかしくはないのだが、眼光はあくまでも鋭い。隠居など考えてもいない男の顔だった。


 マンツィの眼前には、三人のストロコイが顔を伏せて正座している。先日、ジランタイの娘を攫うよう依頼した男たちだった。

「そうですか。結局森に入られて見失った、と」

 マンツィは髭をしごく手を止め、ほうと息を吐いた。しかし眼光の鋭さは緩まない。


 疑っている訳ではない。向こうは地元、地理には詳しかろう。とはいえ日頃から肩で風を切って歩くストロコイが三人もいて、足の遅いドワーフの小娘一人を掴まえられないのは恥を知れと思う。


「どうしたものですかね。今後は警戒して、軽々しく村の外へは出ないでしょうし……」

 威張るだけ威張って使えない連中だ、とマンツィは唾を吐きかけたくなった。名が知れてしまった名工を囲い込む計画が、また遠のいてしまったではないか。

 ――今やセレスどころか、タブガチの王侯貴族にまで販路を開拓できたというのに。あの名工は、なんとしても手にしなければ。

 マンツィはきつく目を閉じ、片手で顔を覆った。


 マンツィの父は、東方騎馬民族トゥルグスの一つガルハの出身だった。先祖代々呪術師ダルハトの家に生まれながらも戦士として優秀で、早くに家を出て交易商人の護衛を生業にしていたという。

 それがある時、護衛に加わった隊商サルトを率いる商人の娘と「親しく」なり、こともあろうに婿入りまでしたのだ。騎馬民族にしては柔軟な頭の持ち主だったのだろう。


 ガルハとスーリ人の混血であるマンツィは、見た目こそ父親似ながら中身は母方の血が強く出ていたようで、子供の頃から家族の予想を超えて商才を発揮した。

 十代半ばで店を譲られてから十年と経たずに祖父の代より店を大きくし、伝手つてを得てチャージュの大商人に婿入りするまでになったのだが、野心に目が眩んでいたと今は思う。


 女房となった女は、娘ながらに父親の片腕として店を切り回す才女だった。しかし、格下の家の出で“野蛮な”ガルハの血を引くマンツィを最初から見下していた。「家業は今後一切を私が仕切ります。あなたは勝手に小さな商いでもやっていなさい」と冷たい目で言われ、マンツィの自尊心には大きなひびが入った。


 家としての商いに関わろうとしても認められない。舅が隠居してからは、彼女が店を動かす指導者なのだから。

 夫婦仲が良好だった時期など一度もなく、一人目で跡取り息子が生まれてからはさっさと寝室を別にしてしまった。そのくせ外に男妾を囲う。これでは、マンツィの面目は丸潰れではないか。


 ――いつか必ず、どこかの国王相手に大きな商いをしてやる。こいつに吠え面かかせて、気持ちよく離縁するまでは耐えるんだ。

 そう思い続けて二十年近く。今やセレス諸国、そして超大国タブガチの貴族にまで顧客を増やすまでになった。婚家の財にも劣らぬ私財を蓄えたマンツィを「跡取りを作るためだけの種馬」という目で見る者など、もはや誰もいない。それでもあの女の敗北に歪んだ顔を見るまで、ひび割れた心と誇りが癒やされる日など来ないのだ。


 ――ジランタイの装身具を足がかりに、最終的にはタブガチの皇帝を顧客にできれば、スーリの誰もが知る大商人も夢ではない。……いや、それすらどうでもいい。あの女にざまあみろと言うことさえできればそれでいい。


 顔を覆った手の下で、屈辱と無念の涙が滲む。齢を取るにつれ、どこか気が弱くなり、涙もろくなってきたという自覚があった。老いぼれてしまう前に、なんとしてでも成さなければ。今のままでは死んでも死にきれない。


「マンツィさん、浸ってるところ悪いんですが、一ついいですか?」

 不意に軽薄な声がした。慌てて涙を拭い、声のした方を向くと、いつの間にか寝台に小柄な若い男が座っていた。

 細い体に金色の髪と翠色の瞳。先端が幾分尖って見える耳。そして着ているのはカフタンではなく古式ゆかしい貫頭衣。護衛であり欠かせない協力者でもある、北方エルフのロイコーンだった。彼はマンツィを見て、意味ありげな微笑を浮かべている。


「ロイコーンさん、いつからそこに……と訊くのも野暮ですね。どうぞ」

「そいつらね、嘘ついてますよ。逃げられたんじゃなくて、偶然居合わせた東国人タムガジュ一人にあしらわれたんです」


 ロイコーンは唇の端を上げ、ストロコイたちは顔を跳ね上げた。体を震わせ、怯えた目で彼を見ている。図星なのは明らかだった。

「俺はマンツィさんと違って、お前たちの言うことなんか信じてないからな。魔法で記憶を覗いたら、案の定だ」


 北方騎馬民族ストロコイは、西国人ヘレネスとの付き合いが長い分、魔法への畏れと恐れが東方騎馬民族トゥルグスより強い。恐怖で再び顔を伏せた彼らを一瞥し、マンツィは再度髭をしごいた。

「その東国人タムガジュとやら、ただの流れ者ならばいいのですがね。居着かれたりすると……」

「気になりますか? なら、見てきましょう」


 ロイコーンは目を閉じ、深くゆっくりとした呼吸を始めた。マンツィは知っている。彼はこうして、魔法で視覚を隣村まで飛ばしているのだ。

 ややあって、ロイコーンがあぁ……、と声を出して顎に手を当てた。

「確かにいますね。この前まではいなかった男が。買い付けに来た感じではなさそうだな」


 そこでロイコーンは目を開け、ストロコイたちの顔を上げさせた。

「ちょっとお前たちに訊きたいんだけどさ」

「……何でしょう?」

「お前たちが出遭った東国人タムガジュは……」

 言いながらゆっくりと顔を後ろに向け、一拍置いて。

「……こんな顔だったかい……?」

 妙におどろおどろしい声色を作りながら、ゆっくりと戻す。


 ストロコイたちが恥も外聞もなく悲鳴を上げ、後ろにひっくり返った。見れば、ロイコーンの顔は普段見慣れたものではなく、北方エルフよりも精悍な人間の顔に変わっていた。左頬の大きな傷跡が目立つ強面だ。


「やっぱりこいつか。人間にしては強そうですね」

 顔を戻し、ロイコーンが他人事のような口調で言った。マンツィは髭に当てていた手で頭を撫で、小さく息を吐いた。

「あなたたち、ご苦労様でした。もう帰って結構ですよ」


 ストロコイたちは何も言えず、うなだれて部屋を出て行った。入れ違いに、旅籠の階段を上る大きな足音が聞こえてくる。

 すぐに部屋と廊下を仕切る幕が上がり、黄土色の巨体が身をかがめつつ入ってきた。

「マンツィどのはおられるか。……おお、居た居た」


 弾んだ声とともに現れたのは、護衛の一人というよりは用心棒というべき男、オーガの慕容突(ぼようとつ)だった。

「おや先生。今までどちらへ?」

「いや、村はずれを散歩しておったらな。猪が出たというので、力比べと洒落込んだのよ。絞めた猪は、村の衆が猪汁ししじるにしてくれるゆえ、晩飯に馳走になろうではないか」


 ロイコーンの口から、うわあという声が出た。マンツィも気持ちは理解できる。猪と力比べをしたあげく絞め殺すなど、桁外れの膂力を持つオーガでさえできる者は限られるだろう。しかも慕容突は、それが当たり前という顔をしているのだ。


「先生。それはたいへん結構なお話ですが、夕飯にはまだ少々間があります。それまで、こちらのお話をしてもようございますか」

「……例の、娘を人質に取るとかいう話か。どうなった」

 絨毯に胡座をかいた慕容突は露骨にいやな顔をしたが、失敗したと聞き手を叩いて大笑いした。

「そうかそうか。それは重畳々々。やはり悪いことはできぬものよのお」


 ロイコーンがかすれた笑いとともに、半眼で慕容突を見る。

「突さん、呑気なこと言ってる場合じゃないでしょ。マンツィさんが商人としてもっともっと大きくなれば、俺たちにもそれだけ金が入るんですから。突さんだって、仕送りの金が要るからここにいるんでしょうに」


 む、と慕容突が言葉に詰まった。それはそうだが、やり方というものが……と巨体に似合わぬ小声で唇を尖らせる。

 マンツィは無骨な彼が決して嫌いではなかった。いや、むしろ好意を持っていると言ってもいい。


 元々、夜な夜な現れる辻斬りを義侠心から退治したところ、その正体は事もあろうに王孫で、おとがめなしと引き換えに国を出ることになった……という男なのだ。いささか気の毒に思い、話を変えようと助け船を出した。

「まあまあ。向こうでは手練れが用心棒になった様子。先生に一働きしていただければ、お手当は出しますので」

「そうか。かたじけない」


 慕容突は頭を下げたが、そこにロイコーンが醒めた声で追い打ちをかけた。

「期待はしない方がいいですよ。いくら腕が立つといっても、所詮は人間。“颶風ぐふう剣”慕容突の相手になるとは、とてもとても」


 言われて、慕容突は寂しげに笑った。

「そこはよい。故郷くにに戻れぬ以上、武勇を誇りたい戦友ともには会えぬのだからな。人間の国でも良いから仕官をして、家族を呼びたい。肩身の狭い思いをすることなく、のびのびと暮らしてほしい。それだけが儂の望みよ」


 マンツィとロイコーンは顔を見合わせた。ロイコーンが言いにくそうに口を開く。

「ねえマンツィさん、人間の国で他の種族が正式に取り立てられた例ってあるんですか?」

 その問いに、マンツィはため息をついて腕を組んだ。

「昔はあったようですがね。ですが、今のスーリは各国とも様子見の状態。そこでオーガやドワーフの戦士を兵士にしてごらんなさい。戦を起こす気かと疑われるだけです。維持費だって人間よりかかりますしね」


「じゃあチャカル(スーリ諸国の国王アフシン・貴族・領主ディフカーンが抱える私兵集団)なら?」

「同じ理由で、外国より先に国内諸勢力から睨まれますね。そこまでして、他種族の戦士を抱えたいかとなると……」


 答えるマンツィの声も、次第に苦々しげなものになっていく。ロイコーンは寝台の上に体を投げ出した。

「戦になれば金もかかる。誇り高い戦士も、金の都合には勝てないってか。世知辛いなあ」

 それきり、三人とも黙ってしまった。空気が重苦しい。窓から入ってくる山鳥の鳴き声が、やけに耳に響く。


 不意に、ロイコーンが跳ね起きた。目を見開き、マンツィと慕容突を交互に見る。

「今思ったんですけどね? いっそのこと、ジランタイを殺っちまうってのはどうです? 新しい品物は手に入らなくなりますが、もう二度と手に入らないってことで価値を上げられるんじゃ? 倉庫にある品物は、俺が魔法で転送すればいいですし」


 むむ、とマンツィは唸った。

「新作が生まれなくなるのは惜しいですが……。いやしかし、品物が今後も他の連中に回るくらいなら……」

 マンツィの中で、暗い欲望が膨らんでいく。ちらりと慕容突を見た。


「儂はやらんぞ」

 慕容突は低い声で、にべもなく言った。即座にロイコーンが反論する。

「いや突さん、もういい加減言わせてもらいますけどね、あんた仕事選んでいられる状況ですか? 家族に楽させたいんでしょ? 戦士の誇りで飯は食えないんですよ?」

「……誇りで飯は食えぬ。おぬしの言う通りだ。だが、それを捨ててしまっては、儂は儂でなくなる。やりたいのなら、おぬしがやればよかろう」


 感情を押し殺したような慕容突の返答に、ロイコーンの顔が引きつった。予想外の答えに二の句が継げない、そんな顔をしていた。視線を上げ、なんとか言葉を探そうとしているようだ。


「近づいて殴るしか能のない……じゃない、魔法に最も縁遠いオーガの突さんは知らないか。魔法によって、他人に害をなすことはできないんですよ。直接的にはもちろん間接的にもね」

「間接的?」

 慕容突が額に皺を寄せ、首をかしげる。ロイコーンは彼に説明を始めた。


 例えば、二人の人間が人食い虎に襲われて逃げていたとする。この時、魔法で虎を眠らせてその隙に逃げることはできる。強い意思の力で耐えられなければだが。

 そうではなく、逃げるもう一人を眠らせたとしたら。まず間違いなく、虎に喰われてしまうだろう。これはいけない。どれだけ憎い相手だったとしても、明確に被害をもたらすと判っていて使うことはできないのだ。


 慕容突は黙ってしまった。結局は自分にしかできないと解り、力なく床に視線を落としている。マンツィは意を決して立ち上がり、慕容突の肩に触れた。

「先生。ジランタイ氏は私が。先生は、東国人タムガジュの用心棒を抑えてください」


 慕容突ははっとしてマンツィを見上げた。それはいかんだろう、と目が言っている。

「先生には、何度も命を助けていただきました。私はね、困窮しても戦士の誇りを失わなかった貴方が好きなのですよ。ですから、先生が誇りと引き換えにするくらいなら私がやります」

「……すまぬ」

 慕容突は再び床を見、小さく言った。声が震えていた。


「さあ、話もまとまったことですし、猪汁をごちそうになりに行きましょう。もうそろそろ、できるのではないですかな」

 マンツィはつとめて明るく言い、率先して部屋を出た。後ろで二人の声が聞こえる。


「突さん、辛いのは平気ですか?」

「む? とりあえず苦手ではないが。なぜだ?」

「いや、香草が何種類かあるんで、突さんの猪汁に入れてもらおうかと。小辛、中辛、大辛、世知辛、どれがいいです?」

「……どうせだ。世知辛と一緒に煮え湯も飲ませてもらおうか」

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