一の六 六道、「首なし美人亭」で一晩を過ごす(後)
気がつくと、頭上の窓から入ってくる光が弱々しくなっていた。横になってすぐに寝てしまったようだ。
階段を上がってくる足音が聞こえる。オパチだろうか。
扉が開き、お夕食をお持ちしました、と言いながらオパチと同じ声の知らない女が入ってきた。
六道は慌てて体を起こし、目を擦った。声だけでなく、顔も確かにオパチだった。しかし雰囲気が全く違う。人懐こい犬のような笑顔は消え失せて、代わりに酒の香りと匂い立つような年増女の色気がそこにあった。
これが彼女の素顔なのだろう。そう考えると、六道は胸が締め付けられるように感じた。
「ごめんなさいね。旦那さんがいるからお料理とお酒を運ぶだけだったんですけど、姉ちゃんも一杯飲んでなんて言われちゃうと断れなくて。しかも三回も」
「別に気にしねえよ。またすぐ下りるのかい?」
「これを持っていったら下りてこないとは言ってありますけどね。夜になったらでいいって旦那さんがおっしゃるなら、戻りますよ」
夕食の皿を盆から膳に移すと、オパチは振り向いて六道を見た。別人のように寂しげな微笑が、六道の胸を抉った。
「……だったら戻ることねえやな。ここにいればいい。いや、いてくれ」
「よかった。旦那さん、やっぱり優し」
オパチの微笑が少し明るくなった。灯りをお点けしますね、と言って台座を少し真ん中に寄せた。
オパチは亀の太い首を愛おしげに撫で、頭に軽く唇で触れた。それから頭頂部の穴に灯心を挿して火を付ける。
――!?
ついあらぬ想像をしてしまっていた六道は、顔を引きつらせ大慌てで下腹部を押さえた。腰が完全に引けている。
「あら、どうしなすったんです? 変なことでも考えちゃいました?」
目を細め、挑発的に笑うオパチの姿を見て六道は気付いた。寝室という戦場における主導権争いは既に始まっていたのだ。
――まずい、先手を打たれちまった。こいつは仕切り直さねえといけねえ。
六道は強引に話を変えるべく、漠然と浮かんでいた疑問を口にした。
「そういや、ここは曖昧宿と思えねえほど綺麗だが、そんなに儲かってんのかい?」
オパチの笑みが消えた。目を閉じて、ふうと長いため息をつく。
「儲かっているのはその通りですけど、清潔感や高級感は出資者の意向ですね」
彼女の声は、何かを諦めたように聞こえた。
「出資者?」
「ええ。お店の前の通りを南へ行って、バザールを抜けた先にお屋敷があるんですけどね」
「ドブジンのところか。あの野郎、曖昧宿の経営までやってやがんのか」
六道が忌々しげに言うと、オパチは目を開いてご存じだったんですかと言った。
「ああ。野郎、初期投資分は回収済みなんて言ってやがったが、数年程度でできる訳ねえんだ。ましてや更に商売の手を広げるなんてよ。あの屋敷を探しゃ、相当な数の証文が出てくるだろうぜ。嵌められた人たちの恨みのこもった証文がよ」
怒りのままにまくし立てると、オパチは横を向いた。
「……でしたら、その中に父と私の証文もあるでしょうね。きっと」
彼女の声は震えていた。六道は驚き、どういうことなんだと尋ねた。
「私の家、元々この町で交易商をやってたんですよ。結構大きな。だから、私もお嬢様なんて呼ばれたりして」
交易商と聞いただけで、筋書きが見えた気がした。だが、もういいやめろという言葉は喉でつかえていた。
「あいつがこの町に来て最初にしたのが、その時町にいた交易商たちに
「……」
「会合と偽って、こっそりお金を持ち出して通ってたんですね。そのうち商売のための交易品をお金に換えるようになって。兄たちも気付いて止めようとしたんですけど、目を盗んで出て行ってたんです」
「兄貴がいたのか」
「ええ。太っちょのお兄ちゃんと、旦那さんより背の高いお兄ちゃんと、心配になるくらい体の細いお兄ちゃん。よく三人の目を盗んで出て行けたと思いますけど」
まさか、と六道は思った。ランペルと出会った時にいた幽霊たち。彼らがそうなのだろうか。
「結局、借金が積もり積もった末に、帳消しにしてやるから一勝負乗っかれって言われて。帳消しどころか、家を売っても足りない借金ができただけでした」
――こっちでも抱き落としか。言葉も出ねえよ。
「父は首を吊りました。母と兄たちは、どこかへ連れて行かれてそれっきり。私は、別の町の交易商に嫁いでいたんですけど、その少し前に出戻ってたんですね。ずっと子供ができなかったから。おかげで、ここで働くことになりました」
六道は掌で顔を覆った。本当に言葉も出ない。奴を生かしておいていい理由などあるものか。それ以上に、オパチが哀れでならなかった。
「抜け出せなかった人たちは、みんな父と同じことになったそうです。この店にも、私と同じように働いている
食えずに身売りする娘たちは昔から尽きない。それは可哀想だとは思うが、誰にもどうしようもないことだ。しかしドブジンは違う。己が肥えるために、何軒の商家を潰し、その財産を吸い取ったのか。何人の女を苦界に落とし、その生き血を啜ったのか。
――
顔を上げた六道は、オパチが部屋の隅の一点を見ているのに気がついた。彼女の視線を追うと、壁に一本のラバーブが立てかけてある。
「姐さん、あれ弾くのかい」
「ええ、娘の頃から好きで。練習用の安物ですけどね」
一曲弾いてもいいですか、とオパチは尋ねてきた。六道は頷いた。
ラバーブを持ってきたオパチは、毛布をどかして寝台に腰掛け、爪弾き始めた。虚ろな弦の響きに乗せて、呟くように歌い出す。
人買い舟が ウムヌの流れを下りゆく
私はどこへ売られてゆくのだろう
船頭は 黙って舟を漕いでいく
オパチの手が止まった。唇を固く結び、肩を震わせて涙をこらえている。六道は立ち上がり、そっとオパチの肩を包むように抱いた。オパチはラバーブから手を離し、六道に強くしがみついてきた。
「……いいんだ、俺の前で我慢なんかしなくていい」
背中を撫で、労りを込めて言うと、オパチの口から嗚咽が漏れた。それは少しずつ大きくなっていく。彼女が落ち着くまで、六道は撫で続けていた。
しばらくすると、オパチは六道から離れ、赤い目をこすりながらも微笑んだ。
「男の人を慰めるのが私たちの仕事なのに、逆になっちゃいましたね。ごめんなさい」
「だからいいんだって。いい女を泣かせる奴ぁ許さねえ、そいつが男の矜持ってもんだ」
「もう、旦那さんったら。……私、旦那さんみたいな人と結婚したかったな。そうしたら、ここで働いててもその頃の記憶が支えになってたのに」
どこか遠いところを見て、オパチが呟く。どこまで
遠いところを見たまま、オパチは独り言のように言う。
「私、時々思うんです。この町にもソーモンケンみたいな人がいてくれたらなって」
「え!? 今何て言った!? そうもんけん、だと!?」
彼女の言葉に耳を疑い、六道は思わず聞き返していた。
かつて嫌というほど聞いた名前。このスーリで聞くはずなどないと思っていた名前。それがまさか。
オパチは六道の動揺には気付かないようで、ええと頷いた。
「セレス地方から来たお客さんに聞いたんですけど、向こうにはソーモンケンって人がいて、弱い人たちを泣かせる悪い人を退治してくれるんですって。旦那さん
六道は言葉に詰まった。頬を冷や汗が伝う。又聞きだから仕方がないのだが、少々事実誤認があるようだ。
「えっとな。その名前、人の名前じゃなくて
「あら、そうなんですか?」
「そうなんだよ。何か書くものねえかな」
オパチは寝台から立ち上がり、衣装棚の方に行くと筆にインク、それと木片を持って戻ってきた。
「これでいいですか?」
「よしよし。ちょっと待ってな」
六道は筆を取ると絨毯の上に胡座をかき、インクを付けて木片に喪門剣と書いた。
「え、何ですかこの字」
「タブガチの文字だよ。渾名付けた奴が
「へぇぇ。タブガチの字って、ずいぶん四角いんですね」
オパチは爪先を立てる正座のような格好で覗きこみ、何やら妙なことに感心している。六道は吹き出しそうになるのをこらえて説明を始めた。
剣の名前ではなく人物の渾名に
「怖いですね……。でもなんで、悪い人たちを退治してくれる人に、そんなおっかない神様の名前がついたんでしょ」
オパチは不思議そうに首をかしげた。六道は苦笑いして答える。
「そいつは、ちっとばかり暴れすぎたんだな。敵方が何十人もいる中に一人で突っ込んで無傷で戻ってきた、ってことを何度もやってよ。ひでえ時なんか、役所で仕事してる標的を白昼堂々ぶった斬って、向かってくる衛兵も斬りまくってな。あいつの剣は人間業じゃねえ、って言われるのに時間はかからなかったよ」
つまり、褒め言葉としての渾名じゃねえってことさ。そう六道が締めくくると、オパチは悲しそうな顔をした。
「可哀想ですね。弱い人たちの味方なのに」
六道はほんの少しだけ笑った。俺のこと優しいって言ってくれたが、姐さんの方がずうっと優しいさ。
今、二人の心が寄り添い合っているのが解る。人と人とが親しくなるのに、付き合った時間の長さは関係ない。それを芯から実感していた。
人肌恋しさは、既に人恋しさに変わっている。そしてもう充分に満たされていた。
だから六道は、つい口を滑らせた。
「なんか満足しちまったな。もう今夜は隣で寝てくれればそれでいいや」
言った瞬間、六道は反射的に跳びすさった。オパチは俯いているが、尋常ではない怒りの気配が伝わってくる。
「旦那さん? 馬鹿言っちゃいけませんよ?」
六道は唾を飲み込んだ。口の中が乾く。呼吸が荒くなっている。体が恐怖に震え、額から冷や汗が流れるのがわかった。
「私は、お店に案内した時からずっとそのつもりだったんですよ? それを今になって満足したからお預けって、自分勝手すぎやしませんか?」
ゆらり、とオパチは立ち上がった。ランプの光に照らされて、両眼は爛々と輝き、口元には獲物を見つけた肉食獣の笑みが浮かんでいる。凶悪なドブジンを相手に一歩も引かなかった六道の口から、ひぃ、と情けない声が出かかった。
――逃げられねえ。いや、逃げたら喰われる。
覚悟を決め、六道はゆっくりと息を吐いて立ち上がった。腰を落として右脚を引き、左腕を盾のように上げて半身に構える。
ランプの炎が大きく揺れる。それを合図にしたかのように、二つの影が同時に跳んだ。
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